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1999年04月号 掲載 
『死の記憶』
 
トマス・H・クック/佐藤和彦訳
 (文春文庫 定価 本体714円+税) 


 どうか、トマス・H・クックという名を記憶に留めてほしい。文句なしに優れた作家の名前なのだから。そんなの、とっくに知ってらい、というお方は立派である。同好の士が一人でも増えることを願って止まない。そういう気にさせる作家なのである。(それにしても、この名前、損なのか得なのか、よくわからない。旅行好きの人間なら、ヨーロッパの鉄道時刻表「トマス・クック」のことをすぐに思い浮かべるだろう。だから、親しみやすいとも言えるし、その一方で、なんだか列車の乗り継ぎからアリバイ崩しをしていく日本のミステリー・ノベルを連想されそうで、それはこの作家の深遠で重層的な作風とはおよそかけ離れていて、ちょっとマイナスかなと余計なことを考えてしまう。こんなのは贔屓の引き倒しかもしれない。)
 アラバマ生まれで、現在ニューヨークに住んでいるクックの作品は、これまで七作翻訳されている(すべて文春文庫刊)。日本における彼の名は、まず『だれも知らない女』、『夜 訪ねてきた女』の、フランク・クレモンズを主人公とするハードボイルド・シリーズの作者として知られる。これによって一部に熱狂的なファンを生み出すが、あくまでごくごく限られた狭い範囲のものだった。というのも、とにかく、暗いのだ。ただ暗いのなら、近年大流行のホラーだって充分暗いのだが、そういう状況によって引き起こされる虚仮威しのものではなく、人間の本質に根ざした避け難い暗さである。つまりクックの暗さには派手な見せ場がなく、ひたすらに地味なのである。とは言っても勿論、単に暗くて地味なわけではなく、文学的に実に豊かな広がりを持っていて、それがクックの魅力の源泉になっている。
 ところが昨年、クックを取り巻く状況が日本で一挙に変わった。七番目に訳された『緋色の記憶』が、年末恒例の各種のミステリー・ベストテンのアンケートで、軒並み、第一位や上位三位以内に入る結果となった。これを機に、昔からのファンとしては嬉しいことに、クックの名はずいぶんと広まった。実際、この作品は長く長くミステリー史上に、いや文学史上にその名を残すような紛れもない傑作である。
 そして、その勢いに乗って出版されたのが本書『死の記憶』である。翻訳の順序とは逆に、本作はアメリカでは『緋色…』の二作前の作品であり、〟過去の記憶の中に隠された犯罪を見出していく〟という『緋色…』の構成の先駆けとなった意味深いものである。読む前に余計なことはつけ加えたくない。ただ、大いなる期待と集中力で読み始めるだけだ。それが本当に優れたものに対して取るべき態度だろう。クックの作品は読んでいる時は無論楽しい。けれど、ただそれだけではなく、読み終わった後にいつまでも心に残る後味が忘れられない。さあ、第一頁に手を!

井上 明久(作家)

 
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