読みたい本:
1999年02月号 掲載
『蕪村春秋』
高橋 治 著
(朝日新聞社刊 本体2,300円+税)
本書は、いささか刺激的で、挑発的で、直截的な、次のような文章で始まる。
「のっけに乱暴なことをいうようだが、世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人と、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人とである」
日頃から蕪村に傾倒している人なら、そうだ、よくぞ言ってくれたと喝采するであろうし(僕なぞも無論その口なのだが)、関心のない人なら、不幸と言われて黙って見過ごすわけにはいかない、ひとつ読んでみるかと思うであろう。そうすれば、一読、蕪村の虜になること請け合いである。それほどに、この本の中には華麗で、繊細で、豊潤な蕪村の魅力が詰まっている。そしてそれほどに、蕪村に対する高橋治の想いは熱く、深く、真摯である。
蕪村の句が絵画的であるとは多くの評者によって指摘されることだが、高橋治によれば、それは一枚の静止した絵画というよりも、時間の経過の中で一コマ一コマが動いて連なってゆくような、むしろ映像的な部分に特徴があるという。作家になる以前は映画監督だった高橋治らしいユニークな視点である。余談になるが、世に小津安二郎に関する本は数多あるけれど、かつて小津の助監督をしたこともある高橋治の『絢爛たる影絵』(文春文庫)は、正統的であり、なおかつ陰翳と含蓄に満ちた小津論の傑作である。
本書は新聞紙上に十年にわたって連載されたエッセイを集めたものである。新聞のコラムという体裁上、一回分が短い。俳句という世界文学史上もっとも短い形式の表現作品を論ずるのに、この一回分の短さはいかにも俳句的であり、軽く、読みやすく、凝縮と飛躍が秘められていて、実に奥が深い。俳句を読む時、一読してサッと次に移る人は恐らくいまい。必ず二、三度は読みかえすに違いない。本書の文章もまた俳句に似て、繰りかえし読んで飽きない。
蕪村を論じれば、どうしたって芭蕉を引き合いに出さないわけにはいかない。本書にも何度か、その対照の妙が描き出されて、俳句の世界の限りない広がりを、俳聖二人の資質の差を通して味わうことができる。
荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)
芭蕉
稲づまや浪(なみ)もてゆへる秋津しま
蕪村
「芭蕉の足は地につき、海は荒れているものの、天空は微動だにしない。一方、蕪村の視角はけれん味たっぷりで、誇張もここにきわまったといえる。そして、日本列島をとり巻く総てが動いている。天空を裂く稲妻は一瞬で消えるが、漆黒の闇はいつ次の電光を発するか、不気味なものを宿す。つまり、闇さえ動く。そこが蕪村ならではの味なのである」
正岡子規が“発見”し、萩原朔太郎が“賛嘆”した蕪村は、高橋治によって、ここにまたひとつの新たな、そして大いなる命を与えられたことになる。蕪村に狂っている人も、未だ蕪村を知らない人も、ここに幸あり!
井上 明久(作家)
Copyright (C) A.I.&T.N. All Rights Reserved.
1996-2008