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読みたい本:
2000年05月号 掲載 
NHK人間講座『漱石先生の手紙』
漱石編2 
出久根 達郎 著
 (日本放送出版協会 本体560円+税) 


 手紙を書くのが大好きだ。そして、手紙を貰うのはもっと大好きだ。だから、手紙という文化がどんどん衰退していくのを目の当たりにするのは辛い。同じ手紙にしても最近はワープロのものが多くなった。ワープロの手紙でも貰わないよりは貰った方が嬉しいが、やはり有難いのは手書きの手紙だ。文字がうまいへたに関わらず、そこに手書きの文字があるというだけで嬉しくなる。その人の文字は世界中にそれひとつしかなく、貰ったその手紙は世界中にそれ一枚しかないのだ。そのかけがえのなさこそが、手紙というものの価値であり喜びなのだ。こんなステキなものがあっさりと忘れ去られてゆくなんて、決してあってはいけないことである。
 手紙というものがどんなに感動的で、どれほど人の心を打つかという最もわかりやすい例が、夏目漱石の手紙である。漱石は実によく手紙を書いた。現在残されているものはおよそ二五〇〇通と言われるが、そのいずれもが人間・漱石の発露であり、心の訴えである。ああ、漱石という人はこんなことを考え、こんなことを思い悩み、こんなことを愛おしんだのかということが、手紙を通して直接こちらの心に伝わってくるような気がする。手紙というのは元々、書くべき相手がはっきりとあって、その人に向かって書く形式のものである。従ってそこには自分の思いを相手にきちんと伝えたいという真摯な願望がある。そのことが手紙の文章を他の種類の文章とは異なる、一種独特な熱気を帯びさせたものにするのである。とりわけ漱石の手紙は、そうした手紙特有の文章が持つ美しさと楽しさの典型であると言えるだろう。
 本書『漱石先生の手紙』は、作家であり古書店の店主でもある出久根達郎が講師を勤めるNHK人間講座のテキストである。本稿が「あけぼの」に載る頃は、全十二回の講座の内まだ半分ほどは残っていると思われるので是非とも教育テレビの画面を通して、漱石の手紙の素晴らしさを味わっていただきたい。出久根さんの人情味溢れる語り口は、学者っぽい堅苦しさも天下の大漱石でございといった気取りもなく、実に親しみやすい。漱石なんて、ちょっとかったるいなと御思いの方もいるだろうが、手紙という日常生活の中で書かれた文章ということと、出久根さんの風貌と口調が醸し出す雰囲気とで、グググーッと近づけること間違いなしである。そして、テレビを離れても本書は一冊の本として大変よく出来ている。手元に置き、繰り返し読みたい本である。
 本書では漱石の手紙を、正岡子規、鏡子夫人、寺田寅彦、門下生、若い人々、読者たち宛に区分けし、友として、夫として、師として、作者としての漱石像をそれぞれ鮮やかに浮かび上がらせている。数多い漱石の手紙の中で、ぼくが個人的に最も好きで、また常に自分に言い聞かせているのは、死の七十八日前、若い弟子である芥川龍之介と久米正雄に連名宛てで出したものである。長い手紙の末尾の部分は以下のようである。
 「あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事は知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈(だけ)です。決して相手を拵らえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」
 根気づくでうんうん死ぬまで押すのですというところに人生に対する漱石の真摯な姿勢があり、文士を押すのではなく人間を押すのですというところに作家・漱石の時流に媚びない大きさがある。とにかく、漱石の手紙は読むものを勇気づけてくれるのだ。

井上 明久(作家)

 
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