読みたい本:
2000年02月号 掲載
『翻訳者の仕事部屋』
深町 眞理子 著
(飛鳥新社 定価本体1,700円+税)
カルチャーセンターでは近年、翻訳講座の授業が大きな人気を集めている。とりわけ、女性の受講者が多いとか。翻訳者という職業に華やかなスポットが当たり始めたということなのだろうか。ところで、プロの翻訳者という仕事が、一個の職業として一般に成立するようになったのは、いったいいつ頃からだろう? 実はつい三十数年前、つまり一九六〇年代に入ってからのことなのだ。エッ?だって明治の昔から翻訳はあったじゃない?そう、確かに翻訳は昔からあった。そう、確かに翻訳は昔からあった。けれどそれは、学者や作家が研究や創作の延長として、あるいは副業として行なったものだった。プロの翻訳が職業として意識され、成立してからは、だからまだ間がないことになる。そんなプロの翻訳者の先駆者であり、作品としての仕上がりに最も信頼のおける一人が深町眞理子なのである。
「訳者は役者である」。これが、翻訳者・深町眞理子の持論である。同じ台本でも役者の上手下手で面白くもなればつまらなくもなるように、翻訳もまた訳者の技量が原著を生かしもすれば殺しもする。そして、役者が役ごとに異なる人生を生きるように、訳者も作品ごとに異なる世界を生きることになる。さらには、役者がただうまいだけでは駄目でそこに〟華〟がなければ人気が出ないように、訳者も正確なだけでは足りず、読者の心に訴える〟華〟が必要なのだ、と。
深町眞理子こそ、まさにそうした“華”を持っている訳者の一人で、本の中身や原著者のことは知らなくても、このひとが訳しているのだからきっと面白いはずだと手に取らせる、そんな訳者である。なにしろ、翻訳の仕事を始めて三十七年、手がけた分野もミステリー、SF、モダンホラー、純文学、ノンフィクションと幅広く、その数二百冊以上になるというから、スゴイ。因みに、これから十年先まで訳書が決まっているというのだから、これまたスゴイ。
訳書の極く極くほんの一部を挙げれば、コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿』、アガサ・クリスティー『招かれざる客』、アラン・D・フォスター『エイリアン』、スティーヴン・キング『ファイアースターター』、アンネ・フランク『アンネの日記(完全版)』などがある。本書にはこれまでの訳書目録も掲載されているが、それを見れば、彼女の訳書を何冊かは読んでいることに気がつくだろう。そんな長く豊かな訳者生活の中で、深町眞理子が体験したさまざまな思いを綴った初のエッセイ集が本書である。
「できあがったものがおもしろければ作者の手柄、どうも一味足りないようだとすれば翻訳者の責任」。そういう損な役回りを引き受けねばならない翻訳者の苦心と悦びが、実にわかりやすく、いきいきと描き出されていて、なるほど訳文というのはこんなふうにして創造されるのかと、翻訳という仕事の舞台裏がのぞけて興味深い。また、直接の仕事を離れての読書や日常生活の楽しみも書かれていて、それがまた必ずしも翻訳という作業に無縁でないこともあって、彼女のバックグラウンドを知ることにもなる。
藪野 健画
巻末の「フカマチ式翻訳実践講座」は、深町眞理子の翻訳原論ともいうべきもので、ここまで明かしちゃっていいの? と思わせるほど懇切丁寧に、しかも一語一語具体的に翻訳作法を公開している。本書は翻訳の仕事を志す人にはゼッタイ必読なのは言うまでもないが、日頃、翻訳書を何気なく当たり前に読んでいる人も、随所におもいがけない楽しい発見をすることになるだろう。
井上 明久(作家)
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