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2000年11月号 掲載 
『こんな男になりたい』
 
馬場 啓一 著
 (新潮OH!文庫 本体562円税別) 


 岩波文庫と並ぶ文庫の老舗、新潮社から何とも生きのいい新文庫のシリーズが登場した。その名は「新潮OH!文庫」。一挙に50点が創刊されたが、そのいずれもが取れたて旬の素材を活かした、なかなか美味しそうなものばかりである。本家の新潮文庫が文芸作品を中心としているのに対して、分家とも言うべきこのOH!文庫の方はノンフィクション系のものが中心となり、いわゆるサブカルチャーもの、インタビューもの、対談ものといった、ちょっと軽めの読物がラインナップされている。有名大手の出版社の中で唯一新書を持っていない新潮社にとって、いわば新潮新書とも言えそうな、新しいタイプの文庫本である。創刊50点の内、半数ほどが書き下ろしであるということも特徴的で、そうした点からも従来の文庫のイメージを大きく変えたものになっている。本書『こんな男になりたい』も書き下ろしの一冊である。
 著者の馬場啓一は、男のライフスタイルについて書かせたら当代一で、ジャズ、酒、 ミステリー、ファッション、シガー、車などなど、その守備範囲はやたらと広い。一昔、いや二昔以上も前に、植草甚一という面白くて為になる、ちょっと不思議なオジサンがいて、僕などは植草さんの本を読んではせっせとネタを仕入れたものだが、馬場啓一は当代の植草甚一といったところか。名前も甚一と啓一で似てるしね。
 こんな男になりたい、として本書に取り上げられている男は、以下の10人。ウィンザー公、ウィンストン・チャーチル、ジョン・F・ケネディ、吉田茂、白洲次郎、池波正太郎、ハンフリー・ボカート、ケイリー・グラント、ルイ・ジューヴェ、マルチェロ・マストロヤンニ。ちょっとばかり渋目の人選で、若い世代には、「誰、ソレ?」ってなところもあるかもしれないが、男なるもの、一朝一夕には出来上がらない厄介な代物であることを理解するならば、なかなかによく考え抜かれた人選であると言える。無論、本書を読めばその辺のところは納得してもらえるだろう。

藪野 健画
そして本書の構成の妙は、この10人の男としての生き方と魅力を描写した後に、それぞれ関わりのある10項目ずつのテーマを選び、10×10、つまり100個の半ば独立したエッセーとして読めるようになっている点にある。それが馬場啓一流の「人生を愉しむための100のスパイス」ということになるのだ。例えばウィンザー公の章なら背広、カシミヤ、靴。チャーチルの章ならスコッチ、葉巻、パジャマ。ケネディの章なら綿パン、ビール、ヘアスタイル。吉田茂の章なら傘、日本酒、落語。白洲次郎の章なら髭剃り、ゴルフ、ライター。池波正太郎の章なら蕎麦屋、眼鏡、居酒屋。ボガートの章ならレインコート、コーヒー、ポロシャツ。グラントの章ならシャツ、床屋、ベルト。ジューヴェの章なら手帳、ワイン、タクシー。マストロヤンニの章ならジャケット、花束、レースの下着などなど。
 ここに取り上げられた100のアイテムは、言わば男が男として、より愉しく、よりカッコよく生きていくために必要な基本要素である。衣・食・住の全般にわたっているばかりでなく、その奥に流れている精神的な部分に踏み込んでいる。当然のことながら、男とは所詮、精神的な生きものなのだから。ホンの一例だけを引用すれば、「酒場」の項はこんなふうに書かれてある。「行きつけの酒場を一軒持っているべきである。なぜなら酒場は憩いの場所であると同時に、隠れ家にもなり、時には応接間にもなるから。もちろん、酒を飲みたい時にも使える。こういった目的の多様さを考えると、大きな店ではなく、こぢんまりとしたところがいい。(略)小さな酒場はまず親父一人でやっている。若い女性のバーテンダーを使っているところもあるが、ホステスではない。ま、カクテルマシーンだと思えばよい。そう、大事なのは白粉(おしろい)の匂いのしないこと。これが長く通うための条件となる」。どうです、酒場などという甚だ肉体的な場所を語りながら、極めて精神的でしょ?

井上 明久(作家)

 
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