読みたい本:
2001年06月号 掲載
『きょうもいい塩梅』
内館 牧子 著
(株)文藝春秋刊 定価本体1,429円+税
のっけから「あとがき」のことについて触れるのも、本来いささか不謹慎なものかもしれないのだが、本書の場合、そうしたくなる気分が抑え難い。それほどに味わい深いあとがきなのであり、また、そこに込められた想いが本文全体と切っても切れない繋がりを持っているからなのである。
今から25年ほどの昔、当時、OL生活をしながら将来の脚本家を目指して脚本家養成学校の夜学に通っていた内館さんは、深夜のガラガラの電車の座席で『銀座百点』を読んでいた。(因みに、この雑誌は横長の形をした薄っぺらなものだが、老舗の銀座タウン誌としての中身は相当なもので、毎号錚々たる執筆陣が顔を揃えている)。そこには向田邦子の連載エッセイが載っていて、ホンの僅かな枚数の中で、日常的なワンシーンから人間の弱さや愛おしさまでを描き出してしまう力量に圧倒された思い出が語られる。そして四半世紀の時が移り、その『銀座百点』から連載エッセイの執筆依頼を内館さんは受ける。13年半勤めた会社を辞めるに際して、課員全員を前に「私はいつかきっと向田邦子になります」と言ってのけた内館さんにとって、この雑誌からの連載原稿依頼には特別の想いと喜びがあったに違いない。
例えば向田邦子のような秀れた文章家がいて、その人の文章を深夜の電車の中で憧れつつ打ちのめされて読んでいる若い内館牧子のような人がいて、そして時が巡り、かつてむさぼり読んだ同じ雑誌に今度は自分が文章を書くことになる。そんな人と場と所の不思議で幸福な巡り合わせというものがこの世にはあるのだ。無論、そこには運のようなものもあるだろう。しかし、それは主ではない。ガラガラの夜の電車、吹けば飛ぶような薄っぺらな雑誌、読む人がいなければ何の意味も持たない小さな活字の群れ、羨望と失望の間を揺れながらそれと格闘して読み進める行為。そうしたものがあるからこそ起こることなのだ。そして、それが「文学」、あるいはもう少し広げて「表現」というものの根底なのだ。
藪野 健画
本書の「あとがき」に込められた内館さんの想いに少しばかり過剰な感情移入をしてしまったが、そんな深甚な動機にもかかわらず(あるいは、それ故に)、『きょうもいい塩梅』というタイトルが示す通り、悲壮とか深刻といった内容からはほど遠く、どの文章もいい塩梅のユーモアと郷愁にほんのりと包まれていて美味しい味わいがある。そうそう、言い忘れていたが本書は幼年期から今までの食物にまつわる情景や人々について書かれたもので、その一つ一つの思い出にまぶされた文章の味加減(つまり、塩梅)が何とも良くて、どの皿を食べても内館さんの名シェフぶりを堪能することができる。
目次には、桜餅だの、カレーライスだの、茄子だの、コップ酒だの、おでんだの、赤飯だの、そばだの、ビールだの、鰻だの、ラーメンだの、ワインだのといった、ごく当たり前の食物や飲物の名前が並んでいて、好きなものから好きなように読んでいけばいい。けれど、いざ読んでみると、その当たり前の食物や飲物がどれも皆、内館さんの思い出を通してかけがえのないステキな宝物のように思えてくるのだ。そして、食物や飲物には必ずと言っていいくらいに忘れがたい人の記憶が残されていて、それが過ぎ去った時間や時代をはっきりと感じさせてくれる。
また、本書にはそうした味わいとは別に、内館牧子風アフォリズムといった、実に小気味いい啖呵にも似た言いまわしが随所にあって、それが何とも楽しい。そのホンの一例だが、「男と料理はアカデミックよりダイナミック」、「世の中でいちばん美しい男は、五月の川風に吹かれながら歩く力士」、「何が苦手と言って、読書と音楽鑑賞が趣味の男ほど苦手なものはない」、「力士の色香とレスラーの耐久力と、ボクサーの敏捷性を持った男じゃなきゃイヤ」等々……。すみません、内館さん、男に関するものばかりになっちゃいまして。いえいえ、たまたまですよ。そんな、わざとじゃありませんて……。
井上 明久 (作家)
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