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1999年07月号 掲載 
『島倉千代子という人生』
 
田勢 康弘 著
 (新潮社版 定価 本体1,800円+税) 

田勢 康弘(たせ やすひろ)
1944年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒後、日本経済新聞社政治部記者、 ワシントン特派員、同支局長を経て、現在、編集委員兼論説副主幹。著書『政治ジャーナリズムの罪と罰』、 『豊かな国の貧しい政治』など。
 近年、芸能人を書いてこれほどさわやかな気持ちになった本はない。世の中には、アイドルものとスキャンダルものが横行して真実から遠ざかること甚だしい。
 大歌手の「島倉千代子という人生」を著わしたのは日本経済新聞社の政治記者であり論説副主幹という肩書からは「堅物」の印象しか生まれてこない。しかし、すでに数冊の小説をモノしその手法と芸域の広さには定評がある。島倉の知られざる面をシリアスな記者の目で自分の人生と絡ませて投影させたユニークな作品となった。
 島倉より六歳年下の田勢氏は、昭和三十二年、島倉が紅白歌合戦に初出場して歌った「逢いたいなァあの人に」をラジオで聞いて以来その存在が人生の心のひだにしみて生き続けるのである。思いは尋常ではない。
 その年、青森の浅虫温泉の隣、久栗(くぐり)坂という寒村で父親を亡くし、母親の実家のある山形県白鷹町に移り住んでいた。  満州で生れ、十三歳で父親(四十二歳)を亡くした。母親は息子三人を引き連れて山形から無一文で上京し、子供の成長だけを楽しみに、働き続けたが、五十四歳で亡くなった。母への思いは島倉の歌とともに格別なものとなる。島倉は自身の人生を歌に託してきた。「人生いろいろ」そのものである。だから余計に響く。
 子供のころからよく島倉の歌を歌っていた。クラシック音楽が好きで、一時は田勢氏に音楽の道を歩ませようとしたこともある母親は「よっぽど島倉千代子の歌が好きなんだねぇ。そのせいかおまえ、歌曲を歌っても小節(こぶし)がまわってしまうんだね」と笑っていたという。
 縁あって島倉千代子と会うことになる。作家の吉永みち子の誘いだった。そこで、「私、何も知らない人間なんです」と恥ずかしげに言った言葉に打たれる。自分が無知であることを自覚する人間が、本当に無知であるはずがない。驚きだった。こんな人にあったことがない――。
 翌日、田勢氏は早速手紙を書いた。「島倉千代子を書いてみたい。島倉千代子という人物を通して、戦後の庶民を描きたい。僭越ですが、私以外書けないと思うし、私が書くべきだと信じています。これはあなたのために書くのではなく、あくまでも自分のために書くのです」という “あつかましい”ほどの内容だった。島倉は新聞社の田勢氏の電話にメッセージを残した。聞き取れないような小さな声で「島倉です。先日はどうも」「私嬉しくて」といったあと涙声になっていたのだという。強引だが、田勢氏のアプローチは島倉に響くものがあったのだろう。
 取材・執筆は一年間に及んだ。インタビューは「決闘」のごときものだった。「包み隠さずすべてを話してほしい。それが真実であるかどうか、そしてその部分を書くかは、私が決める」。有無を言わせぬ取材姿勢でしかも、何も聞かずに島倉から語り始めるまでじっと待つことも田勢氏の手法であった。
 長い沈黙もある。島倉は困惑し、田勢氏の根気に負けて自ら語りだすのである。涙し怒りながら。だから「承知するかぎり島倉は全く嘘をついていない」と断言する。そしてまた、田勢氏の超一流のジャーナリスティックな手法で、膨大な資料と関係者に当たる作業を尽くしたことが、島倉の口からますます真実しか語れない状況に追いやることになる。ただ、「真実の残酷さに当惑してあえて書かないものもあった」という。島倉の人生はそれほど波乱万丈であった証左であろう。
少女時代(デビュー当時) ※写真は本書より。
 作品が発表される数ヶ月前、偶然に私は、東京に向かう新幹線で二人が寄り添ってむつまじく談笑しているシーンに出会った。「東京だヨおっ母さん」に代表される母の陰影を島倉の歌とその時代背景に感じ取ったという田勢氏だが、知らぬ者には恋人同士のようにしか映らなかっただろう。  取材の最後に田勢氏は講演のため山形の故郷に行くとき島倉を誘う。はらはらするほどの餅をほうばる島倉の開放された姿。突然の大スターの登場に講演会場には涙する者もいた。こうした演出は田勢氏の母親への供養でもあった。書く者と書かれる者が、妥協せず真実と真心を通い合わせて生まれた快著である。

日本経済新聞社 編集委員 工藤 憲雄

 
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