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1999年10月号 掲載 
『月島物語』
 
四方田 犬彦(よもたいぬひこ) 著
 (集英社文庫 本体 571円+税) 
月島の柏山稲荷神社 藪野 健画
 一九九二年に単行本が出て、第一回斎藤緑雨賞を受賞した四方田犬彦の『月島物語』が文庫版になった。そして、文庫版のために新たに書き下ろされた「月島への旅の追憶」と題されたあとがきの中に、次のような一節がある。
「『月島物語』を書き上げて二年後、わたしはイタリアに映画の勉強のため留学した。(略)この家を知っている何人かの友人知人が、できれば後に入居できないだろうかと、わたしに声をかけてきた。結局、当時フランスのモード雑誌の日本語版を編集していた知人がわたしの後釜に入り、わたしは彼のために古びた机を残した。彼はその後、勤めていた出版社をやめ、その机に齧り付いて一冊の推理小説を書き上げた。イタリアから帰ってきたわたしは、東京の今度はまた別のところに住みだして、それを受け取った。そこにはちゃんと舞台として月島が、ちらりと顔を覗かせていた。」

 文中に出てくる、四方田さんの後釜に入った知人とは、何を隠そう(て言うほどでもないが)ぼくのことである。月島の家に一九八八年から九四年まで六年間暮らして、四方田さんは『月島物語』という秀れたエッセイ集を作り上げた。その後を受けて今日まで仲間達との共同の仕事場にしているぼくは、『佐保神の別れ』という秀れない小説を書いた。ぼくにとって『月島物語』は、そんな不思議な縁で結ばれた大切な本なのだ。  月島といえば、もんじゃ焼きの町として雑誌やテレビに取り上げられ、今や全国的にも多少は知られているのではないか。東京の下町の代表のようにいわれるが、実は百年とちょっと前に作られた埋立ての島である。浅草や日本橋や深川のように大きな顔はできない。けれど、暴力的な勢いで古き良き情緒が破壊されつづけている東京の中では、比較的昔の匂いと独自のたたずまいを残しているのが月島の町だ。そんな月島の歴史から文化までを丸ごと調べに調べてすくいあげ、その上で読みやすくて面白いエッセーへと仕立て直したのが本書である。
四方田氏の住んだ長屋の2階(現在)
 とりわけ、著者が専門とする映画と文学からの言及は興味深く、小津安二郎の『風の中の牝鶏』、黒沢明の『酔いどれ天使』などの映画作品、吉本隆明、大岡昇平、石川淳、大泉黒石、きだみのる、小山内薫、三木露風などの文学作品を通して、この小さな人工の島がいかに豊かな文化を生み出してき たかを明らかにしてくれる。月島に対する著者の熱い想いが見事に結晶した傑作である。  非力な我が身もかえりみずに、ぼくもまた、月島という町に何ほどかのものを付け加えたいと思っているのだが、二〇〇二年の都営地下鉄十二号線の開通に向けて、月島は大きく変貌しようとしている。木造二階建ての長屋や美しい露地や横丁の銭湯など、現在の月島を形づくっている大事な部分が、はたしていつまで生きつづけられるのだろうか……。

井上 明久(作家)

 
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