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2001年03月号 掲載 
『冬晴れの街』
 
赤瀬川 隼 著
 (実業之日本社/定価 本体1,600円+税) 


 小説を読む時、長編小説には長編小説なりの、短編小説には短編小説なりの、それぞれの楽しみ方、味わい方があって、どちらが上とか下とかと言うことはできない。何日かゆったりと一つの長編世界に身を委ね、包まれ、たゆたうことの愉悦も素晴らしいし、寝る前の一刻、ウィスキーの酔いのなかで意想外の短編世界を駆け抜ける快楽も捨てがたい。無論、いずれにしてもその作品が秀れていて、面白くなければ始まらないことではあるけれど。
 こんなふうな譬えはどうだろう。長編小説というのは、よく気ごころも知れた優しくて素敵な女性と、日や時や場所を変えながら、長くゆっくりとつきあっていくようなものである。そこには心地良い安らぎと、徐々に深まっていく歓びがある。それに対して短編小説というのは、街なかで偶然に出会い、一瞬に通り過ぎていった幻の美女のようなものである。そこには痛みにも似た哀しみと、神秘的なまでの昂まりがある。
 赤瀬川隼の新刊『冬晴れの街』は、短編小説本来の鋭い切れ味と、人生の一断面の鮮やかな描写とを堪能させてくれる、見事で典型的な短編集である。ここに収められているのは、96年から99年までに小説誌や週刊誌に発表された10編の短編で、登場人物や状況設定はそれぞれに異なるが、いずれの作品にも共通する主題が哀調を帯びたムードとともに描かれている。
 そのことは、収録された10編の作品のタイトルにはない、オリジナルなタイトルである「冬晴れの街」が本書の書名として付けられている点によく表われているように思える。ここに登場する男たちは、どれも皆、中年を過ぎ、あるいは老いに一歩足を踏み入れた、いずれにしろ人生の盛りを過ぎて「冬」に生きる者たちである。冬の寒さと厳しさと切なさを、身を以て知っている者たちである。  けれど、暗く重い冬の日々にも時折り眩しいほどの陽光が射す「晴れ」の日がある。一瞬の幻影にも似た冬晴れの明るさと輝きは、男たちに青春の残像を垣間見せる力を与える。この妖しい華やぎは男たちにとって歓喜をもたらすと同時に、やがては悲哀を味わわせることになるのだが。
 そして男たちは、人と人とが出会い、別れ、再会する場としての「街」に生きている。そこでは思いがけぬ感動とぶつかることもあれば、予期せぬことで傷つく機会もある。人生を重ねるということは、その数だけの街を訪れ、歩くということでもあるのだ。そのようにして、男たちは「冬晴れの街」を今日も歩いている……。

藪野 健画
 例えば10編の作品中、最も新しく発表された「ハンナ・シルヴェスターの日記」をひとつだけ取り出せば──地方都市の映画祭の審査員である五十半ばの奧野周一と、大学でのかつての教え子で現在は映画の配給会社に勤めている三十すぎの北上亜矢子とが、映画祭の会場で八年振りに再会する。そして二人は、今見た映画「ハンナ・シルヴェスターの日記」について語り合うことで再会の時を共にすごすことになる。
 妻であり二児の母親であるヒロインのハンナが、幸福だった家庭の崩壊につれて自らの人格をも喪失していく経過を描いた映画について、男と女がそれぞれの思いを語っていく。その対話を通して、罪の意識と無意識という重いテーマがさりげなく二人の胸を去来していく様を、いわば間接描写風に表現する作者の筆捌きは何とも心憎い。作者の人一倍な映画好きの資質が、自然な形で短編小説のなかに溶け込んでいる。そして、華やぎの後の、少しほろにがいエンディングこそ、正に冬晴れの街を行く男にふさわしいものである。

井上 明久 (作家)

 
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