読みたい本:
2000年10月号 掲載
『辻邦生が見た20世紀末』
辻邦生 著
(信濃毎日新聞社刊定価 本体2,000円)
本書『辻邦生が見た20世紀末』は、昨年7月29日に急逝された辻さんの遺著としては4冊目にあたる本である。
これまで辻さんの文章が本になる時は、その全部あるいは大半を、僕は雑誌や新聞の段階で読んでいることが普通だった。従って、部分的な加筆訂正はなされているにしても、単行本となった辻さんの文章を読む時は僕にとって再読であることがほとんどであった。ところが、本書に収められていた文章は初めから終わりまで、僕にとって未読のものだった。こんなふうにして辻さんの単行本に向きあうことは、今までになく新鮮だった。そして、あの時の辻さんはあんなことを考え、この時にさんはこんなことを書いていたのか、という発見に満ちていた。
なぜ僕が本書に収録されている文章に初版の段階で一度も接していなかったと言えば、これらの文章はすべて「信濃毎日新聞」という地方紙に発表されていたからである。もうずいぶん長いこと、辻さんが「信濃毎日新聞」(略して信毎(しんまい))に毎週一回、文章を書いていることは辻さん御自身の口を通して知っていた。しかし、さすがにその現物に触れる機会はなかった。僕個人にとっては、辻さんが信毎に書かれている文章は、言わば“幻のエッセイ”だったのである。
辻さんと信州との関係は遠く旧制松本高校時代までさかのぼる。日に日に戦争という泥沼への深みを増していた時期、最も多感な青春時期を信州ですごした辻さんは、その文学観、自然観、人生観の根幹に、信州の風土が持つ美しさと厳しさを据えらえた。そして、生涯、軽井沢を中心にこの地を愛された。従って、信州の地方紙である「信濃毎日新聞」は、辻さんにとって特別な思い入れのある新聞であり、亡くなられる一週間前まで営々と書き続けられて、それが文字通り最後の文章となったのである。
1990年8月3日から、1999年7月23日までの9年間、つまりは1990年代のほぼすべて、毎週金曜日に「今日の視角」と題した短い文章(四百字にして二枚少し)を辻さんは「信濃毎日新聞」に発表し続けた。その433回のすべてを収めたのが本書である。A5判(普通の単行本の四六判より一廻り大きい)に二段組で450ページを超える大著である。しかし、前述したように、一つ一つは八百字少々のコラムなので読みやすい。そしてテーマは実に多岐にわたっている。一冊の単行本の中でこれほど幅広く辻さんの多様な側面を知ることができるのも、本書の特徴の一つであろう。
吉田町医王寺下風景 藪野 健画
信州やパリなどの風景について、師や先輩や友との交友について、映画や演劇や音楽や絵画の楽しさについて、文学の歓びと苦しみについて、身近の日常的な出来事について、マスコミを賑わすニュースについて等々、辻さんの思索と感想は簡潔に適格に、そして真摯に柔軟に展開されている。また、これまで政治的な問題に関して直接に表現することは比較的少なかった辻さんが、世紀末が近づくにつれてますます混迷と崩壊を深めていく世相に強い疑義と違和感を呈しているのも、本書の特徴の一つである。ソ連邦の解体から始まり東西ドイツの統一とヨーロッパ統合へと進んだ世界の動き、クローン羊や臓器移植や老人介護などを通して浮かび上がってきた人間や生命力に対する新たな視点ーーそうした1990年代とはいかなる時代であったかを考える時、必ずや本書は大きな光を与えてくれるであろう。
各年の扉のページに可愛いイラストが全部で10点添えられている。偶数年の5点は辻さんが、奇数年の5点は奥様の佐保子さんが描いたものである。それぞれにきちんと個性を持った線描で表現されているのがすごい。豊かで深い内容を持ちながら人懐こい優しさを感じさせた辻さんに相応しい本である。
井上 明久(作家)
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