読みたい本:
1998年12月号 掲載
藝別冊『追悼特集 須賀敦子 霧のむこうに』
(河出書房新社刊 定価/本体1,200円+税)
今年の三月、須賀敦子さんが逝った。六十九歳の若さだった。それは文字通りの若さだった。というのも、後に『ミラノ 霧の風景』という本のかたちをとることになる文章を通して、須賀さんが私たちの前に姿を現わしたのはようやっと五十代の終りになってからで、それから現在までまだ十年足らずのことであり、そのせいかどこかいまだに若々しい新人の風情を漂わせていたからである。けれどこの新人は、そのそもそもの最初からすでに或る種の完成度と風格を感じさせる大人でもあった。須賀さんは、初々しさと揺るぎなさを矛盾することなく併せ持った稀有の人だった。そして今、私たちの前に九冊の著書と、数多い翻訳書が遺されたのである。
今度、「文藝」別冊という体裁で出された『須賀敦子 霧のむこうに』は、そんな須賀さんの作品世界と人となりをたくさんの友人たちが深い哀惜をこめて綴り、語った追悼特集である。この一冊は、須賀さんの文章によく親しんでいる人にも思いがけぬ新たな発見に満ちており、いまだ須賀さんをよく知らない人にはこれ以上ない恰好の入門書でもある。無論、須賀ファンにとってはこんなに早くこの種の本を必要とすることになるなんて思いもしなかったし、できればもっとずっとずっと先のことであってほしかったという強い念いがある。けれど、須賀さんが亡くなったことが動かせぬ事実であるならば、今となってはどうしても手もとに置きたい一冊であり、私たちはここから繰り返し「須賀敦子の世界」のエッセンスを読みとり、味わっていくことになるだろう。
関西の豊かな家庭に生まれ、若くしてヨーロッパに留学し、カトリック左派として出版活動に従事するイタリア人と結婚し、貧しいが幸福な生活をあまりにも早い夫の死によって断ち切られ、中年になって日本に帰国し、大学で教鞭をとるかたわらイタリア文学の翻訳に力を注ぎ、やがて六十歳を前にして少しずつ自分自身の言葉を文章にし始める。それらの言葉は、ゆるやかに、静かに、けれど着実に、深々と人々の心をとらえ、いつの間にか広い輪へと拡がってゆく。そして、日本の最も良質的な部分と、西欧の最も本質的な部分との両方の体験から紡ぎ出される美しい日本語は、今まで誰も表現し得なかった世界を築いてゆく。
生み出された瞬間にすでに古典の趣きを持っていた須賀さんの、清新で、伸びやかで、豊饒な文章に、日本を想う時、西欧を考える時、文学の歓びを味わいたい時、私たちは何度となく立ち返ってゆくことになるだろう。須賀さんは逝った。けれど、須賀さんの文章は永遠に私たちの前に在る。来年、河出書房新社から全集が刊行されるという。一人でも多くの人が須賀さんの魅惑にとらえられることを願っている。
井上 明久(作家)
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