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2001年02月号 掲載 
『いとおしい日々』
 
小池 真理子著 写真 ハナブサ・リュウ
 (徳間書店/定価 本体1,800円+税) 


 いとおしい日々……  何と心に泌みる言葉だろう。何と憧れに誘われる言葉だろう。そして、何と自省に駆られる言葉だろう。
 私はいとおしい日々を生きているか?
 この問いは極めて貴く、また重いものである。そして、常に新しく、また繰り返し思い浮かべなければならない問いである。
 一度過ぎ去れば決して戻ってはこない今日という日を、今という瞬間を、私はいとおしいものと感じて生きているか?
 例えば、辻邦生の『円形劇場から』という短編小説の中に次のような一説がある。
「風や、光や、 の声や、町の雑路が、これほど豊かな色彩と快感と幸福で満たされていることに気がつかなかった。思えば大都会で色褪せた生活に喘いでいる人々は、貧困と不安におびやかされているばかりでなく、こうした色彩や感触に盲目にされているのだ。都会にだって、空はあり、風は吹き、雨が窓を濡らす。だが、誰が空をゆく雲の白さを眺めようか。誰が窓を打つ雨の音に聞き入ろうか。あわただしい暮しと娯楽と不安とが、こうした色彩や感覚のうえにゆっくり立ち止まることを許さない。そうなのだ、都会でおそろしいのは、貧困や不安や多忙が人間を苛むことではなく、こうした真の生活から切りはなされ、生活のイミテーションを生活と思って生きていることなのだ」
 風や雲や光や雨や花や木や……そう、私たちは本当はこんなにもかけがえのない、いとおしいものをたくさん与えられているのだ。ただ、日々の暮らしに忙殺されて、それらに気づくことなく見すごしているだけなのだ。そうした一つ一つをしっかりと味わうことができたら、私たちの生活はどれほどに豊かで楽しいものになるだろう。
『いとおしい日々』は、小池真理子の筆になる一編が四百字三枚前後の短いエッセイと、ハナブサ・リュウの実に官能的なモノクロームの写真とで構成された、美しくも贅沢な一冊である。
 エッセイで描かれる主題は、光や音や匂いや時間といった、手に取ることや目にすることはできないが、それでいて私たちの記憶に深い思い出を刻印するものが選ばれている。


藪野 健画
 「外から帰り、滴り落ちる汗を拭いながら、窓の向こうの、光あふれる庭を眺めている時など、しみじみと影に包まれている自分が涼しく感じられることがある。夏の獰猛(どうもう)な光には、いつも濃厚な影がつきまとう。光を外に見て、内側にはあくまでも闇を湛えようとした日本家屋の美しさを存分に堪能できるのもまた、夏なのである。だからこそ余計に、真夏の、うすぐらい室内から眺める窓の外の光は、切りとられた一枚の絵のごとく美しい。」(「遠くの光」)
 ここにあるのは、ギラギラと照りつける真夏の獰猛な光と、それが生み出す漆黒の影。その光と影が日本家屋によって二つに切り取られる、たったそれだけのことで、それが一枚の絵のように美しいのだ。
「どういうわけか、記憶の中にある夏の風景は、私の場合、常に音を伴っている。それは庭木立を被い尽くす油蝉の鳴き声だったり、夕立が庭のヤツデの葉を叩く音だったり、「キンギョォー、えー、キンギョォー」と繰り返す金魚売りの小父さんの声だったりするわけだが、そればかりではない。もっと別の音……気配といってもいいほどひそやかな、かすかな音にもまた、夏の記憶が潜んでいるような気がする。(略)思い返せば、遙か遠い昔の記憶は音と光と匂いとに満ちている。そこにさしたる物語はなく、あるのは残照のようになった淡い感傷ばかりである。」(「遠い夏の昔」)
 もし、大人になるということが、年を取るということが、そうした音や光や匂いを喪っていくことならば、それほどに生活を貧しくするものはないだろう。そこにさしたる物語はなくても、私たちのまわりには実に豊かなものが満ちていることを本書はそっとひそやかに語っている。

井上 明久 (作家)

 
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