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読みたい本:
2000年09月号 掲載 
『パリの街・レストラン散歩』
 
戸塚真弓 著
 (実業之日本社刊 定価 本体1,700円) 


 先月に引き続きまたまた私的な回想からこの稿を起こすことをお許しいただきたい。本書の著者である戸塚真弓さんも、私が雑誌『マリ・クレール』の編集を担当していた当時、さんざんお世話になったパリ在住の執筆者である。戸塚さんのパリ暮らしは30年以上にわたり、その間、パリ大学の社会学者であるピット氏と結婚され、また一女の母でもある。 そうした長くて豊富なパリの生活の中から紡ぎ出された戸塚さんのエッセイは、女性らしい細やかさと生活者としての妥協のない実感に裏打ちされ、創意と発見に満ちている。『マリ・クレール』で連載した『パリからのおいしい話』や『ロマネ・コンティの里から』をはじめとする戸塚さんの著書は、パリやフランスの暮らしと文化を知るためにはこれ以上ない恰好のものである。その文章は平易で読みやすく、それでいて忘れ難い印象を長く残す。それはどんな小さなこと一つでも決して付け焼刃ではなく、丹念な取材と確かな経験から生まれたものであるからに違いない。
 とりわけ戸塚さんがその本領を発揮するのが、料理、ワイン、レストラン批評の分野である。パリで何度かご一緒したが、食べること、飲むことに戸塚さんは実に熱心であり、貪欲である。そして、それ以上に、そういう場面ではいつでもどこでも実に楽しそうに見えた。実際、食べると言う行為にはそうした気分的要素は大きな役割を果すもので、同じ料理でも仲間や雰囲気によって大きく左右されることは誰でも経験あることだろう。一回の食事をできるだけ愉快においしく食べる――そのことにかける情熱を戸塚さんから強く感じることができる。


 そしてこのことは、恐らくパリでの暮らしの中で戸塚さんが実感として学び取っていったものに違いあるまい。食の快楽という欲望に関して、パリほどに本質的に豊かな都市はないだろう。確かに東京は食産業においてパリ以上に多彩で変化に富んでおり、安易で便利に満ちている。けれども、そこでは誰もがそそくさと用事を済ませては通り過ぎていくだけであり、じっくりと腰を据えて深く味わい楽しむということがない。その点、パリは正反対である。そこでは食べることがとことん味わい尽され、とことん楽しみ尽される。メニューをながめ、その中から今宵口にする料理を選び出すことに、あきれるほどの長い時間をかけている光景にしばしば出くわす。食べる楽しみはもうその瞬間からはじまっているといわんばかりだ。食べる歓びがそのまま生きる歓びに結びついているパリだからこそ、良い料理人とおいしい名店が次々と生まれてくるのだろう。
『パリの街・レストラン散歩』は、そんなパリの最新レストラン・ガイドである。本書には超高級店から気軽なビストロまで、さまざまなタイプの60軒のお店が紹介されている。無論、すべて、戸塚さんが自分の足ででかけ、自分の舌で味わい、これぞと判定した店ばかりである。「ラ・トゥール・ダルジャン」や「レ・ザンバサドゥール」といった伝統と格式の超名店もあれば、「ラ・クーポール」や「ラ・クローズリー・デ・リラ」のようなベル・エポツクの老舗もあり、「ル・カフェ・ブルー」や「レ・ブッキニスト」といった今風の小粋でおしゃれな店もある、といった具合だ。
 料理の味や内容は勿論のこととして、店の雰囲気や値段が簡潔にしっかりと書き込まれていて、どのような場合にどの店を選べばよいかが適格にわかるので、ガイドブックとして実に有難い。地図もちゃんと付いている。もっとも、実際にその店に行かなくても、戸塚さんの文章を読んでいるとパリの街の風と匂いが感じられて、それだけで心が浮き立ってくる。そして、何かおいしいものを食べた後のような幸福感に満たされてくる。

井上 明久(作家)

 
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