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2004年12月号 掲載 

大乗寺の水引地蔵と立間郷  
 
愛媛県吉田町 

乗寺の水引地蔵
 水引地蔵の名は旱魃に苦しむ村の田圃に一夜にして水を引いて農民を救ったという霊験に由来する。また、野党の群れが寺に押し入り、寺に火をかけ財物を奪おうとしたときには、忽ち年を取った尼さんの姿に変身し、野党どもに酒食を接待、ねんごろに仏恩を説き諭し、寺の危難を回避したという故事により、尼地蔵の別号も伝えられているそうだ。
 延宝四年(1676)春、藩主の発願で寺が再興されたときに、京都寺町の仏師が修復、彩色をほどこした姿が今日のお姿である。
 吉田町立間の大乗寺の創建年代は不詳とされている。しかし立間(たちま)という地名は、今から千年以上も昔の承平年中(九三一~九三八)に三十六歌仙の一人 源順(みなもとのしたごう)が撰述した百科辞書『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』の中に網羅された当時の行政地名(国名・郡名・郷名)にあるそうだ。その頃の立間郷は今の宇和島市から津島、御荘あたりまでを郷内に含む大きな郷であったそうだ。その大きな郷の中心だから、当時から中央の文化がある程度伝わり、神社と寺院が存在していても決して不思議ではない。大乗寺の山門を入ってすぐ右手にある地蔵堂内の水引地蔵には鎌倉時代、元寇のあった十三世紀末に彩色が施されたという確かな記録が残されている。白木のお地蔵さんを彩色したのか、あるいは色あせたお地蔵さんを塗り直したのかはわからないが、いずれにしてもさらにつくられた時代が遡る可能性が大いにある。このお地蔵さんを桓武天皇の時代の「弘法大師一刀三礼(こうぼうだいしいっとうさんらい)の作」とする寺伝もあながち大袈裟なものとは云えないだろう。

地蔵堂の扁額

大乗寺境内の紅葉と六地蔵

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