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2002年07月号 掲載 

乾繭(かんけん)倉庫雑感 
 
吉田町御殿内 


 吉田町御殿内、中世の城跡である石城山のすぐ下のあたりに、濃緑の蔦におおわれた、古い鉄筋コンクリート風の建築がある。
 窓や戸などの開口部が小さく床が高い。近くで見ると、何かに使われている様子もなく廃墟に近い。正面の戸の脇には朽ちかけた鋳物のタラップがついている。蔦が覆った部分とモルタルの部分、それぞれに表情があって不思議な風情を醸し出している。一見、直線的で愛想のない建物のように見えるが細部を見ると軒先などに繊細な左官仕事が見えて、建物を造った人の心意気が感じられる。
 この建物は、大正十五年に建てられた乾繭倉庫である。大正から昭和にかけて愛媛県は長野県や群馬県などの先進地に次ぐ蚕業県であった。昭和三年度『全國製絲工場要覧』巻末の統計を見ると、愛媛県は繭の生産額でも生糸の生産額でも当時の全国四十七道府県で十位につけている。吉田町は大正時代にはその愛媛県で県下第一と称されるほど蚕業が盛んな土地であった。この建物はその当時の最後の名残ともいうべき建物である。養蚕農家は生繭販売の場合、生産の好不調や糸価の市況に連動する繭価の変動をもろに受ける。吉田町では、すでに明治後期に「養蚕家の不利と小製糸業者の繭乾燥の不便を察して」(吉田町誌下巻)大規模な繭乾燥場が建設されていたというが、大正三年には繭取引場が開設され、大正十五年になって、この乾繭倉庫が建設されたのであった。当時は、輸出産業として花形だった製糸業は昭和初年の経済恐慌のあたりから一期に衰退の道を辿った。昭和三十年代を境に、桑畑もほとんど姿を消して、蜜柑一色になった吉田の町では、蚕業はすでに遠い記憶の一片に過ぎない。


 吉田町、国道五十六号線御殿前交差点の歩道橋の上に立ち、乾繭倉庫の方を眺めた。手前の立間川の古い石垣は江戸初期のかつての吉田三万石の陣屋掘だ。明治維新の後に陣屋の宏壮な敷地は売却され、ど真ん中を道路が通って、両側は宅地となった。明治、大正、昭和にかけて建てられた住宅や現代のマンション、なぜか二条城を模したという町立図書館、そして乾繭倉庫。雑然とした景色の中に、近世から近代、現代へと連なる町の変化が積み重なっている。
 
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