2002年03月号 掲載
一茶「寛政七年紀行」
三津~松山
勝山町一丁目の一茶句碑
「正風の三尊見たり梅の宿」
師竹阿の俳友で松山屈指の豪商であった百済魚文の唐人町の邸内で、一茶は、芭蕉、其角、素堂が、狩野探雪が描いた琴と笙と太鼓の絵にそれぞれ賛を付けた三幅対の軸を見せられて、この句を詠んだ。この三幅対は其角門の松山藩江戸家老久松粛山(しょうざん)の求めに芭蕉らが応じたもの。
寛政4年(1792年)春、小林一茶は江戸を旅立ち、西国へ向かった。2年前に世を去った俳諧の師、「葛飾派」の宗匠二六庵竹阿(にろくあんちくあ)の足跡をたどる俳諧修行の旅であった。葛飾派は芭蕉と親交のあった山口素堂(「目には青葉山時鳥(ほととぎす)初鰹(はつがつお)」の句で知られる)をその祖とする。当時の江戸俳界の主流であった洒落風に対し、どちらかというと意識して、野暮ったく、田舎臭く詠むのが特徴だった。気取らず、大衆的で、日常的な題材をとりあげ俗語も平気で使った。一茶も自分から「夷(ひな)ぶり俳諧」と言っている。
一茶の師竹阿は、芭蕉のように旅を愛し、生涯のほとんどを旅に過ごした。一茶は竹阿の門弟や知人が数多くいた西国への旅をすることで、竹阿の後継として二六庵を名乗り葛飾派の宗匠となることをめざしたのだった。一茶の「寛政七年紀行」は一茶が33歳の時、寛政7年(1795年)に、住職が同門の俳人であった讃岐の専念寺(観音寺市にある)を起点にして、竹阿の門弟や知人を訪ねながら、金比羅道を歩いて松山の二畳庵に栗田樗堂を訪ねた旅の覚え書きである。松山市内や三津港界隈に一茶の跡を尋ねてみた。
一茶が二度来遊した松山の俳人栗田樗堂の二畳庵跡
二畳庵跡は伊予鉄道市内電車古町駅近くにある阿沼美神社境内の「浮雲やまた降る雪の少しつゝ」という樗堂の句碑(写真)がある辺り。栗田樗堂(1749~1814)は酒造を業とする松山の豪商で大年寄などの公職も務めた。京に上って蕪村の流れを汲む人々と交流したこともある有力遊俳。駆け出しの葛飾派の俳諧師であった年下の一茶より中央俳壇でも格上の俳人であったが、よほどうまがあったのか二人は深い友情で結ばれた。一茶は二畳庵で「菊折てけふも二人がぶらつきて」などと詠んでいる。子規が高く評価した樗堂の俳風は典雅、優麗と言われる。寛政12年(1800年)に、この地の西南約200mのところに「庚申庵」を建て、(現在松山市が修復中)、さらに、後妻の故郷、御手洗島(大崎下島)に新たな二畳庵をつくって移り住み、そこで亡くなった。一茶は江戸から柏原に帰郷する記念の俳諧撰集『三韓人』に樗堂からの最後の来翰を載せ、「大事の人をなくしたれば、此末つづる心もくじけて」と深く悼んだ。
三津港の渡船
松山からの帰路、三津の松田方十邸に泊まった一茶が小深里(こぶかり)(現在の港山)の洗心庵送別句会の際に渡船。現在は市営、「無事故・無休・無料」の「三無の渡し」の別名があり、定員13名、1日約120往復。両岸距離80mで所用3分。
道後温泉句碑(酒井黙禅筆)
道後温泉の辺りにて
「寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉」
港山の「洗心庵跡」
一茶来遊時、三津の俳人たちが送別句会を開いた尼寺の跡という。今は鉄工場が建つ。海辺を逍遙した一茶は、亀水塚(きっすいづか)(芭蕉塚)の「笠を舗(しい)て手を入れてしるかめの水」の句を見て「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」という懐旧の句を詠んでいる。亀水塚のある不動院を洗心庵跡とする説もある。
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