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2004年02月号 掲載 

プールと明教館 
 
 

プールと明教館
 松山東高校に現存する「明教館」を時々訪れる。藩政時代の藩校の講堂で、子規が学び、後に漱石が教えた頃の松山中学時代にも講堂として使われていた建物である。ある時、親切に案内していただいた松山東高校の先生に「松中・東高同窓会報 明教」第32号の特集記事、「明教館」のコピーをいただいた。私などは、明教館の由来や位置の変遷について知ることがなかったので、この松山東高校のルーツとも言うべき建物への敬意に満ちた詳細で行き届いた記事を有り難く読んだ。  明教館は明治36年から、昭和10年に市役所横にあった県立図書館が新しく建てられるまでは松山市唯一の図書館として使われていた。そして、図書館としての役目を終えた後、昭和12年に同窓会が松山市から無償で払い下げを受け、工費4346円をかけて、大正5年、一足先に二番町から持田に移転していた松山中学校敷地内に移築したのであった。

明教館は文政11年(1828)2月3日、松山藩第11代藩主松平定通が本格的な藩校の講堂として建てたもので、 もとは二番町にあった。定通は「寛政異学の禁」で知られる老中松平定信の甥であるという。
 私は、この記事を読むまでは松山中学がすでに大正5年に現在の東高の場所にあったことを知らなかった。だから、当直の先生と年端も行かぬ生徒たちがアメリカ軍の焼夷弾から明教館を守った有名なエピソードの舞台も二番町のどこかであったのだろうなどと思っていたのである。そうではなかった。明教館はアメリカの非道な空襲を受けた当時、すでに現在の位置にあったのであった。  案内していただいた先生に、その私の思い違いについて話すと、「はあー、そりゃあ違うよ、ほら裏に50メートルプールがあるじゃろうがね。あそこから水を汲んで消したんよ」と穏やかに笑いながら教えて下さった。  昭和20年7月26日午後11過ぎ、松山を襲った120余機のアメリカ空軍爆撃機B29は松山市を無差別爆撃した。旧市街は全焼し、多くの非戦闘員の命が失われた。松山中学も明教館を除き全ての校舎を焼かれたのであった。

屋根の大棟鬼瓦には久松松平氏が遠祖と仰ぐ菅原道真の家紋星梅鉢。

降鬼瓦に徳川家の略章である立葵。
松山藩が親藩であることを示す。
 明教館の前に立つ「明教館死守の記」にこうある。「深夜11時半から翌朝2時頃まで襲いくる焼夷弾を避けながら明教館を直撃した二発、周辺に数発の焼夷弾が落下した中を数名の教員と約40名の防空要員とが消火活動に務めた」。防空要員は、当時松山中学2年生(後の松山東高等学校一期生)、の13、4歳の子供たちだった。彼らがプールの水を手押しポンプで汲み上げて、明教館を守った。だいぶ年をとった表情のプールサイドに立って明教館を見ていたら、当時の先生と子供たちの活躍が思われて、胸が熱くなった。
 
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