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1999年08月号 掲載 

宇和島の墓を歩く 
~神田川にそって~ 
 


 あるとき、宇和島の三輪田俊助画伯に、旧宇和島市立図書館館長、故渡辺喜一郎氏が先人の墓掃除を楽しみとしておられたことを伺ったことがある。司馬遼太郎や吉村昭など宇和島を舞台に多くの小説やエッセイを書いた多くの作家たちに親炙し敬慕された氏は、宇和島の先人達が残した文業や史料を後の世の為に上梓されただけでなく、同好の士と、人知れず先人の掃墓を続けられていたのであった。氏の忌日は、友人で勝海舟の研究家として知られる川崎宏氏が「山茶花忌」と名付けた。川崎氏が渡辺氏と光国寺にある中野逍遥の墓に行く途中、民家の塀に山茶花の古木が見事に咲いていたのを記憶しておられたことによるという。宇和島人が 殊のほか愛惜してやまぬ神田川 にそって掃墓の散策に出かけてみよう。私の散策メモを付す。



泰平寺 宇和島市神田川原(じんでんがわら)
曹洞宗。寺の若い奥さんが墓地に同道し、要領よく墓の場所を教えて下さった。

藤好 南阜(ふじよし なんぷ)【一七二〇~一七九三】
宇和島藩教学の祖安藤陽洲を助け、子弟の教育に当たった。志操堅固、権勢に阿らず、読書を楽しみとした。墓は墓地の入口すぐの右手。晩年、その奉ずる古学派の勢いが衰えたが「臣が学派既に一定せり、時に随いて浮沈する能わず」と軽薄な世の移ろいに一顧だにしなかった。

得能 亜斯登(とくのう あすと)【一八三七~一八九六】
(墓地の中央、お地蔵さんの後ろあたり)

都築 温(つづき あつし)【一八四五~一八八五】(寺門の脇)
ともに伊達宗城を助け、大政奉還など維新の政局で大きな役割を果したが維新後は官を嫌い帰郷して故郷のために尽くした。



高橋 新吉(たかはし しんきち)【一九〇一~一九八七】 詩人。墓は、墓地むかって左の山手にある。父高橋春次郎の名が墓石に見える。「ダダイズムは高橋新吉の若い血をたぎらせた。だが生涯を通じて彼の思想を一貫してきたのは仏教である」(清水康雄)新吉の墓碑銘という詩に “私の墓碑銘は、「太陽と格闘した男」として貰いたい。”とある。
法円寺 宇和島市神田川原(じんでんがわら)
日蓮宗。境内に、立正保育園がある。園長さんに珠山の墓に案内して頂いた。高知県中村市出身の若き幸徳秋水が寺男として上京前の三ヶ月をこの寺で送ったことなどを伺った。



左氏 珠山(さし しゅざん)【一八二九~一八九六】】 墓は墓地奥の高台、伊達四代村年夫人の大きな五輪の塔の隣にある。漢学者。上甲振洋の弟子。宇和町卯之町の申義堂、宇和島の藩学明倫館、松山中学等で教えた。松山中学では英語を教えた漱石の同僚だった。小説『坊っちゃん』の「漢学」は珠山がモデルだという人もいる。宇和町ではいまなお「宇和町の教学の灯を点した人」として敬慕されている。
光国寺 宇和島市妙典寺前(みょうでんじまえ)
臨済宗。寺の建物はすっかり新しくなった。



中野 逍遥(なかの しょうよう)【一八六七~一八九四】 神田川に近い宇和島市賀古町に生れた抒情的漢詩人。夭折。恋人を思う「思君我心悄/思君我腸裂/昨夜涕涙流/今朝尽成血」(君を思いてわが心いたみ/君を思いて我が腸は裂く/昨夜涕涙流る/今朝ことごとく血と成る)という五言絶句がある。墓は本堂左手の墓地中ほど。子規、漱石と大学予備門の同窓。岩波文庫『逍遥遺稿』が版を重ねる。親友佐々木信綱の追悼歌「ゆく水のすみだの川のあきのつき 誰とか見べき 君なしにして」「逍遥子は多情多恨の人なり」と言った正岡子規の追悼句「いたづらに牡丹の花の崩れけり」
大超寺 宇和島市大超寺奥(だいちょうじおく)
浄土宗。境内からの宇和島城と湾の風景が美しい。墓地は奥が広く、寺の方が鉄腸の墓の場所を地図で丁寧に示された。



伊能 友鴎(いのう ゆうおう)【一八二四~一八七五】 功績を称える碑が境内に、墓は本堂に向かって右脇にある。宗紀、宗城、宗徳の幕末維新樹の伊達三代に仕えて活躍。安政の大獄では重追放になるなどの辛酸に屈せず国事に奔走した。


末広 鉄腸(すえひろ てっちょう)【一八四九~一八九六】 都築温の実弟。非常な秀才で若年にして藩校明倫館教授に抜擢された。官途についたが決然辞職して文筆を業とし、明治八年東京曙新聞の編集長。後に朝野新聞に転じ、弾圧を恐れず、自由民権の論陣を張った。国会開設とともに衆議院議員となる一方、政治小説『雪中梅』などで一世を風靡したが舌癌で早世。
 
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