2012年05月号 掲載
畦地梅太郎美術館大原美術館所蔵棟方志功展を見る
畦地梅太郎記念美術館
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2004年05月号「畦地梅太郎の美術館」にあります。合わせてご確認いただければ幸いです。
大原美術館を設立した大原孫三郎を献身的に支え、倉敷の芸術文化の街づくりに大きな貢献をした二人の人物、大原家のホームドクター的な存在でもあった医師の三橋玉見と、三橋の導きで倉敷紡績に電気技師として入社し大原美術館の初代館長を長く務めた武内潔真がともに愛媛県の南予の出身であり、少年時代から兄弟のような交際を続けたことは、倉敷でも愛媛でも、一部の人々にしか知られていない。二人は共に往時の南予人らしく自らをことさらに語ることが少ない人であったからである。私が知らなかったのは無論のこと、出身地の南予でも、大原総一郎が愛媛民芸館を寄付設立し、クラレのある西条市でも事情は同じであったようだ。
昨年夏、愛媛民芸館前館長の岡崎正樹氏のお力添えを得て、宇和島市と早稲田大学社会連携研究所の共催で二人の倉敷の芸術文化のまちづくりへの貢献を振り返る小さな催しを、二人が少年時代を過した宇和島市津島町で開くことができた。倉敷から武内潔真の御令孫武内真木氏に来ていただき、二人と深い関係にあった柳宗悦の書や、倉敷における民芸諸家と三橋・武内との交流年表などを展示して、二人の活躍の概要を話していただいた。参会者は南予を中心に2日間で百名足らずであったが、武内真木氏の陶芸展もあわせて開催することが出来た。
今春、宇和島まで高速道路が開通した。その開通イベント「南予癒し博」の一環で、インターチェンジのある三間町の「道の駅」にある畦地梅太郎美術館で大原美術館所蔵の棟方志功版画展が開かれた。昨年夏の催しに畦地美術館の高山館長ら三間の関係者が来られ、来春の催しについて武内潔真が南予出身ということを大原美術館から聞かれたという話をされていたことなどもあり、その棟方展に出かけてみた。棟方の展示は、それなりのもので、いつもの同館の平日の様子とは異なり、賑わいを感じた。三橋玉見とともにアララギの歌人として中村憲吉に師事した大原孫三郎の妻須恵子の歌を棟方が彫ったものも展示されていたし、展示の最後に初代館長武内潔真のパネルが展示されていた。期待して出かけた私には不満もあったが、まあこんなものかと納得し、ミュージアム・ショップで畦地の絵葉書をもとめて館を後にした。
武内潔真は晩年に、「自分は番人として、大原孫三郎と児島虎次郎がつくった美術館に水をやって守り育てただけである。しかし、番人といえども、誰にでもできるものではない」と、ひかえめにではあるが、強い自負をこめて語っている。昭和5年大不況の最中に開館し、日中戦争から第2次大戦の時代をへて、大原總一郎の代に引き継がれて行くまで、大原美術館を守り発展させた武内の苦闘と功績は小さいものではない。世界の大原に育てたのは、武内一人の為し得たことではないというのはいわずもがなのことである。大原美術館の語り部と言われ、おおらかに自己を顕示して語った二代館長藤田慎一郎とは違い、武内本人が、どのような成果も、自らのひとり為したこととして言挙げをしてはいない。時代は、武内の生き方とは真逆にうすっぺらい時代である。三橋も武内も歴史の表面からは見えにくい存在になって行くのも無理からぬことではあろう。 今回の展観は一過性の賑わいを見せたことであろうし、よく知られた棟方の板画はいつもながら好評を得たことでもあろう。しかし、愛媛県立美術館でも多くが集まり、絵手紙の小池邦夫氏の卓抜なギャラリートークが好評だった棟方展に重ねて開催する主催者の意図の安易さはおおうべくもない。柳宗悦の全集にある武内宛の書簡や長部日出雄の小説「鬼が来た」、城山三郎の大原孫三郎伝「わしの眼は十年先が見える」などに三橋や武内の姿の一端が捉えられている。二人の故郷での大原の展観であるから、もし大原の館長であった武内が生きていたら、どのような展示をしたかと考えながら会場をめぐった。展示を企画した大原の学芸員はどう考えたのかとも思ったが、挨拶以上の心映えを感じることはできなかった。高山館長のお話では、武内についての展示は大原美術館からの示唆によるもので、展示の企画も棟方の版画の選択も大原美術館に全面的に委ねたとのことである。さもあろう。オープニングには高階秀爾大原美術館館長、大原謙一郎理事長らが見えたという。畦地美術館のささやかな規模と、通常の大原美術館の移動展が開催される美術館の規模から考えると異例の手厚さである。武内と、展示はなかったが児島虎次郎の盟友で肖像画もある三橋の、倉敷への貢献に対する敬意として受け止めるべきなのであろうか。
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