2006年07月号 掲載
四月十五日の南海放送ラジオ、堀田建設スペシャル『坂の上の明治人』の内容を
パネリスト別に編集人がまとめたノートです。
粕谷一希さん 〈 第三回 〉
子規と日露戦争、松山人について
明教館 松山東高校の安倍能成像
司馬さんは子規が大好きだった。私は子規をマイナーだと思っていた。しかし、以前に松山に来た時に、子規記念博物館で、原稿の山を見て、そのエネルギーのすごさに驚き、認識を改めた。
子規は、日清戦争に陸羯南の日本新聞社の記者として従軍したが、それは明治の文士やジャーナリストとしては、めずらしいことではなかったと思う。大正時代になると、事情が違う。芥川竜之介が、『将軍』で、乃木に握手してもらう兵士と、ポケットの中で芸者にもらったハンカチを握っている兵士を対比して乃木をからかっているが、反戦、平和が文化人たちの主流になった。しかし、明治は、子規だけでなく、朝日新聞の池辺三山や京都帝国大学の支那学者内藤湖南も日露主戦派だった。辛亥革命前夜、清朝末期の中国、満州でロシアのやっていることを実際に見たことのあるジャーナリスト、学者、政治家の多くがある程度、主戦派で一致していた。
松山人と言うと、昨日、松山に着いてすぐ、松山東高校に行った。明教館や、同窓会館で、子規、秋山兄弟、水野広徳はじめ松山中学時代以来の多くの卒業生たちの墨跡などを見せてもらった。その時に、安倍能成の銅像を見て、安倍が松山人であることをすっかり忘れていたのに、気づいた。安倍には、何度か会ったこともあり、思い出の多い人だ。哲学者としては自分の体系をつくるまでに到らなかった人だが、戦後、文部大臣や、学習院の院長を務めたりした。教育者としては偉い人だと思う。戦前、安倍が旧制第一高等学校の校長をしていた時、一高生たちに太平洋戦争について、今度の戦争は食うか食われるかの戦いであると語っている。当時、歴史通には、太平洋戦争をポエニ戦役にたとえる人もいたが、安倍も開戦直後の浮かれた雰囲気を冷静に見て、将来に危機感を持っていた一人だった。敗戦後、日本を訪れた米教育使節団を迎えた安倍が「戦に敗れたわれわれも大変だが、良き勝者たるのも難しいことである」と挨拶をしたのを記憶している。アメリカ人もどきっとしたと思う。
周知のように伊予は俳人が多い。その俳人達を育んだ、土地柄の奥の深さを、訪れるたびに感じる。伊予の人はシャイなのだろうか、押し出しはよくないと思う。そうかと思うと、ちょっとくらいのことでは簡単に感動しないし、保守的な土地柄なのに、肩書きなど、権威に頭を下げないところもある。なかなか、一筋縄でいかない。土佐の人よりもひだが深いと思う。
(つづく)
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