2006年08月号 掲載
四月十五日の南海放送ラジオ、堀田建設スペシャル『坂の上の明治人』の内容を
パネリスト別に編集人がまとめたノートです。
水木 楊さん 〈 第一回 〉
- 作家・元日本経済新聞論説主幹
人物富士山論 山県有朋を評価する
松山市歩行町の秋山兄弟生家跡にある常磐同郷会の建物。
私も司馬さんが嫌いではない。しかし、昨今のように、世が「司馬史観」一色で覆われるのはいかがなものかと思うときもある。人物富士山論というのがある。富士山の遠景はさわやか。しかし、近くに寄ると、石がごろごろ。その風姿の見え方は距離によって変わるということだ。人物もしかり。善悪両方を見て、業績は正しく評価すべきと考える。私の評価する明治人の一人は、司馬さんだけでなく、多くの人が嫌う山県有朋。明治政府の意思決定は閣議決定で行われたが、元老会議でほぼ趨勢が決まった。その有力者は伊藤と山県であり、日露戦争については、伊藤は日露協商派で開戦直前まで消極的だった。山県は日英同盟を推進し、露西亜との戦いは避けがたしとして、情報将校を駆使して、慎重に戦争の準備を進めた。外相小村とともに対露交渉に当たった、子分の桂太郎首相を一貫して支えている。日露戦争はいわば、山県の戦争であった。司馬さんの「坂の上の雲」における山県に対する扱いはいささか公平さに欠けるのではないかと思う。
山県は臆病だったと言われる。馬関戦争の時に、戦場で供されたフグをただ一人だけ食わなかったほど慎重で臆病だった。日露戦争に勝利した後も、その山県の臆病さが軍部にあったら、日本は負ける戦争はしなかったろう。昭和の陸軍の暴走時代、昭和天皇が「山県がいてくれたらなあ」と嘆じられたことが木戸日記にある。そういう意味で、山県をもっと評価してあげたい。
司馬さんは遠景の明治を書いた。近景の大正昭和をほとんど書けなかった理由はその辺にあるのではないか。伊藤は女癖が悪いが明るくて憎めない。山県は暗い。陸軍で長州閥の子分ばかりを登用し、お金の問題もあった。嫌われるのも当然だが、これからは、暗くても、いろんなことを考えている人間を、その人の事績を総合的に見て、評価していかなければと思っている。
(次回は秋山好古や松山人について)
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