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2006年09月号 掲載 
「坂の上の明治人」ノート
短期連載 第5回
四月十五日の南海放送ラジオ、堀田建設スペシャル『坂の上の明治人』の内容をパネリスト別に編集人がまとめたノートです。
水木 楊さん 〈 第二回 〉 作家・元日本経済新聞論説主幹 

公心は日月のごとし 

松山東高校史料館にある秋山好古の書「公心は日月の如し」 

水木楊『動乱はわが掌中にあり
情報将校明石元二郎の日露戦争』
(一九九一年新潮社刊) 
 松山東高校の史料館に秋山好古の書があった。「公心は日月の如し」。好古の書は、自由闊達でうまく見せようと言うところが少しもない。いい字だなって感心して見ていた。その秋山が福沢諭吉を最も尊敬していた。(男の子はみな幼稚舎から慶応に入れた)。福沢の『学問のすすめ』は今日に比定すれば、一千万部以上の超ベストセラー(「明治五年二月第一編を初めとして同九年十一月第十七編をもって終わり、発兌の全数、今日に至るまで、およそ七十万冊にして、初編は二十万冊に下らず」福沢の「合本学問之勧序」より)。「人は生まれながらに貴賎・貧富の別なし」として学問の必要性を説く福沢に多くの若者が触発された。好きな明治人として、私もほんとうなら、ここで福沢を取り上げたいところだが、福沢が育てたたくさんの人材の中で、松永安左エ門にふれておきたい。(水木氏の著に『爽やかなる熱情 電力王・松永安左エ門の生涯』日経ビジネス人文庫がある)松永は、戦後の九電力体制を作った人だが、当時、九電力会社への分割と共に、日発の発電能力の四十二%を所有する電力融通会社をつくるという案が主流だった。安左エ門の案は日発を解体し、発電から配電まで一括して担当する九電力会社に分割するというものであった。松永は、鬼と呼ばれるほどの頑張りで反対意見を封じ、電力再編事業を成し遂げた。太平洋戦争開戦の時、この戦争は負けると松永は言った。その松永が、敗戦直後記者達に「これからはわしがアメリカと戦争をはじめる」と言い放った。焦土となった太平洋沿岸に工場をいっぱい造って一家に二台車を持つ世の中にすると松永が豪語した時にそんな時代が実現することを信じた者は少なかった。敗戦から昭和三十年代にかけて戦後の復興期には、明治の坂の上の雲を見ながら人々が歩んで行った時代にある面で、通じるものを感じる。
 私事にわたるが、祖父が一高の寮歌「ああ玉杯に花受けて」などを作詞した矢野勘治。その祖父は子規と文通があった。祖父に当時の話を聞いたことがある。あの頃の人は先ず「公」が頭にあった。秋山好古にしても、真之にしても、子規にしても彼らはそういうふうに育てられていたということだ。子規が従軍記者になったのは、当時の記者魂としては普通のことだったと思う。


梅津寺にある秋山好古像 
 今のジャーナリズムは、自戒も含めて言うと、公論を恥ずかしがる。斜に構えないで、真っ正面から公論を建てることも必要だ。国というより、公である。郷土を愛するのは自然なことで、愛する郷土を守るために命を惜しむ人はいなかった。日露戦争の勝利が人を酔わせて、軍国主義が暴走した時代もあったが、愛国心については、狭い議論が行われている気がする。国と民族がイコールなのは日本くらいで、公と国は必ずしもだぶらない。
 松山には、首相が出ないといわれる。それは結構なことではないか。がむしゃらさは必要ない。十年か二十年先に道州制が現実化したときに、松山の位置づけや、果たす役割はなにかが問われる。出しゃばっていろいろ拡大し発信してる所より、固有のものを保っているところが強いし、最後に残る。松山にはたくさんの無形資産がある。無理してプレイアップする必要はないと思う。腰高になって無用の欠点をさらすより、じっくり腰を下ろして他の地方にないものを再発見したほうがいいと思う。

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