1999年03月号 掲載
二月十九日、西宇和郡保内町川之石にある愛媛県で操業中の、ただ一つの蚕種製造工場、愛媛蚕種株式会社の建物三棟を有形文化財として登録するよう、文化財保護審議会が有馬文部大臣に答申した。
洋風と和風がとけあった木造建築の歴史的な価値に加え、現在も日本を代表する蚕種製造の会社として稼働中であり、地場産業の発展過程がよくわかることが高く評価された。
愛媛蚕種は最盛期の大正十二年には全国蚕種製造番付の第五位で「西の関脇」を張ったこともある名門で、天皇の侍従が視察に訪れたこともある。
蚕の繭から作られる生糸は日本の産業革命と資本主義の拡大再生産を支えた文字通り一筋の糸であったといわれ、一九二〇年には日本の輸出金額の四割を生糸が占め、養蚕農家は全国の農家の四割に達した。愛媛県は明治から昭和初期にかけて西日本有数の養蚕県として知られ、特に南伊予では多くの農家が年に三回から四回蚕を飼っていたという。
しかし、かつては日本の近代化を支えたその養蚕業が今は昔話の中に消えようとしている。全国で蚕種製造をしている会社はわずか二十五社。愛媛ではこの愛媛蚕種ただ一社になってしまった。
ところがどっこい、愛媛蚕種は健在なのだ。明治一七年創業、『日進館』という社名だった時代からの建物を今に伝え、蚕種の出荷量、品質とも全国で五指に入る。
今回の登録について四代目社長の兵頭義夫さんにお聞きした。「蚕種製造を続けながら、ずっと残していくということです。保内でも古いなつかしい建物がずいぶん消えて行きましたがこの建物は今も立派に現役ですからね」と穏やかに答えられる。懐かしい町の風景の核となる建物を次の時代に伝えようという兵頭さんの心意気に打たれた。
旧「日進館」もNHKテレビでも紹介されたりして、タウン・ウォッチングに来る人が少しずつ増えているそうである。兵頭さんは「建物をほめてもらうのはうれしいのですが、蚕を育て、繭から蛹を取り出して交配し、蚕種をつくるという非常にデリケートな作業をしているので、防疫の点からもほんとうのところは、内部の見学を原則的には、おことわりしたいのですよ」とも話された。
保内町本町通り、伊予銀行の前を山手に入った愛媛蚕種株式会社「旧日進館」の周囲には、迷宮のような路地が走っている。行き止まりと思ったら手押しポンプの井戸があり、その先に青石の階段があってさらに細い路地が延びている。そして、美容院だったという素敵な建物に行き当たる。「旧日進館」の全景を見たければ、取り壊された集会所の跡や、さらに農道を登って山の中腹に上がればよい。玄関や窓のペディメント、防火壁の赤煉瓦は外の道から見える。小人数で静かに、魅力あふれる路地歩きを楽しまれることをおすすめしておきたい。
防火壁の赤煉瓦
傾斜地を生かした建築
1919年に建てられた第1蚕室と第2蚕室を背景に。兵頭義夫社長と息子さんの眞通さん。
玄関や窓のペディメント
(ギリシャ神殿に由来する三角形の造形。建物の記念性を強める)
-----------------なぜ登録文化財なのか。
藤森照信建築探偵の弁
【雑誌『東京人』九八年四月号所収「保存建築を見に行こう」より】
旧制松山高等学校講堂(登録文化財) 藪野 健画
「公的に保存の措置が講じられているものについてみると、国、都、区市町村、の三区分がある。…この三区分はこれまで暗黙のうちに三ランクと同義に思われてきた。国指定が一番いいもので、都の文化財は次、区市町村はラストというふうに。
たしかに、歴史的な由緒、作りの良し悪し、規模、芸術性という観点を物指しにするなら、この三ランクは否定しがたい。
しかし、なつかしさ、を尺度に測ればはたしてどうだろう、場合によるとランクは逆転する。名高いお寺の建物よりは、あの町角の洋館の方がなつかしいってことはおおいにありうる。
この問題に一番早く気づいて手を打ったのが都でも区市町村でもなくて、ニクイコトに文化庁でありまして、昨年(九七年)「登録文化財」という制度を発足させてしまった。町角の洋館やマンホールのフタ、石垣や水道施設、火の見櫓など、とにかくちょっと目立つもの、なつかしいものならこれすべて、歴史的存在として国の台帳に登録し保存することにしよう、というのである」。
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