2003年12月号 掲載
東北大学図書館の漱石展
十一月の始めに仙台にいる愛媛出身の友人がファックスを送ってくれた。 東北大学附属図書館所蔵の「漱石文庫」の収蔵資料で、「明治・大正期の文人たち漱石をとりまく人々」という企画展があるという知らせだった。 なぜ、東北大学に漱石の蔵書や原稿・日記のすべてがあるのか。それに対する回答のような展覧会だという。 仙台は遠い。しかし、近いとも言える。仙台に行って宇和島から来たと言ってみればよい。ほとんどと言っていいくらい相手の表情が軟らかくなる。 伊達家の縁である。少し前までは、直行便の飛行機も飛んでいた。(小松便ともども飛ばなくなったのは残念だ)。
だからというわけでもないが、遠い仙台の漱石展に敢えて出かけてみた。 漱石の自筆資料がテーマごとに展示された興味の尽きない企画展だった。 一例をあげる。たとえば「漱石と子規」のコーナー。ガラスケースの中に置かれた小さな手帳を見る。 先ず、漱石の滞英日記がこんな手帳に小さな字で横書きで書かれていたことに初めて気がつく。 開かれている左側の頁を見ると「一月二十一日月女皇危篤ノ由ニテ衆庶眉ヲヒソム」とあり、その下に「一月二十二日火TheQueen is sinking. Craig 氏に行く、ほととぎす届く子規尚生きてあり」とあるのが目に入る。俳誌『ホトトギス』が日本から届く。 子規はまだ生きていると漱石はどんな思いで日記に誌したのであろうか。 子規は漱石の送った「倫敦消息」に「僕ノ目ノ開イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と続便を期待したが、ついにそれを心待ちにしたまま死んだ。 ロンドンで文学との悪戦を続けていた漱石は子規の生前には、子規の求めに応じることはできなかった。 漱石と子規の出会いから、漱石が『吾輩は猫である』を子規の霊前に献上するまでの経緯を示し、子規との出会いと交流、その死が小説家漱石を生んだのだとする展示には強い説得力があった。 肉筆で読ませる配慮がとても行き届いていたことにも感心した。
ケーベル先生のコーナー
なぜ仙台に漱石のすべてがあるのか。それは漱石の愛弟子小宮豊隆が東北帝国大学文学部長として在職したことが一番大きいであろう。戦前に漱石の残した蔵書はすべて小宮の手で東北大学図書館に移されたという。今後も東北大学では漱石文庫の収蔵品を活用した企画展を続けていくそうである。仙台は伊達家の縁に加えて漱石と子規の縁からも、愛媛にとってますます近い土地になるに違いない
Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012