2002年11月号 掲載
アメリカインディアンの美術
空の都市アコマ
有木宏二 文・写真
ニューヨークの先端にあたる部分、ちょうど自由の女神の見えるバッテリー・パークの近くに、ナショナルミュージアム・オヴ・ザ・アメリカンインディアンという、いわゆる「インディアン」の文化を紹介する国立博物館がある。少し前、この博物館で、「精神の捕獲 ネイティヴ・アメリカンとその映されたイメージ」という企画展をやっていて、これがかなり衝撃的な内容を含む展示となっていた。映像が中心だが、そのコンセプトは、白人が見た「インディアン」のイメージと、「インディアン」から見た「インディアン」のイメージを対決させるというもの。たとえば、羽根飾りの装束を身にまとった「インディアン」の写真の隣に、シルクハットとスーツを身に付けた「インディアン」の写真が並んでいたのである。
白人によって「インディアン」の写真が数多く撮影され始めたのは、写真機とフィルムが発明されてしばらく経った十九世紀末からである。被写体である「インディアン」たちは、撮影のためだけに羽根飾りを付けさせられ、撮影されるごとにわずかな報酬を受け取った。普通の生活を営む「インディアン」が(誰もが好む)羽飾りを付けた「インディアン」として振る舞うことによって、そこにビジネスが成立したのである。
そのころ、すでに東海岸を追われた「インディアン」は西へ西へと移住を繰り返し、彼らの文化は「ワイルド・ウエスト」と呼ばれ、さらに、度重なる強制移住によって衰退の危機に瀕した彼らの文化は、「ヴァニッシング・ウエスト(消滅する西)」という言葉で重ねて表現されるようになっていた。しかし消えゆくものはつねに憧憬の念を呼び覚ます。そこに歴史の真実に対する不正が入り混ざるのはいうまでもない。白人は「インディアン」を消えゆくものとして一様に叙情化し、その結果、羽根飾りを付けた「インディアン」という代表的なイメージによって、いまなお僕たちの視線は歪められてしまうことにもなった。だからこそ、その歪みをいくらかでも矯正しようと、自由の女神の見えるニューヨークの先端で、「インディアン」から見た「インディアン」の姿が展示されていたのであるが・・・、ハイスクールで学ぶ「インディアン」、モーターで動く漁船に乗って魚を捕る「インディアン」、シャツとジーパンを身に付けた「インディアン」・・・、けれども、時折そこから滲み出していたものは、普段着の「人間」として活動する人々の体臭であると同時に、支配的な文化が押し付ける「人間」の中に、無理をして同化しようとする「インディアン」の矛盾した感情だったように思われるのである。
いったい、「インディアン」とは何なのか。自分なりにその答えを見つけたくて、ニューメキシコ州の州都サンタフェから南西に約二〇〇キロ、アコマという「インディアン」の集落で、僕はシャッターを切りつづけた。アコマは自然の風化作用がもたらした奇岩の上にある集落。その高さは優に一〇〇メートルを超し、急激に切り立った坂道のみがこの集落への唯一の導入となっている。別名「スカイ・シティ」、空の都市だ。ここには水道、電気、ガスはない。つまり日干しレンガで作られた住居にはライフラインというものはいっさい通っていない。こんなところに人が住めるのか、という質問は、お節介だし野暮にすぎる。集落が出来たのは千年前である。しかし一四九二年に「新世界」となって以後、大地に根差して生活を営んできた彼らの伝統は、強制的にキリスト教の教会が建てられることによって、あるいは言葉を奪われることによって、彼らの住居の壁のように激しく亀裂を生じさせてきたのは確かだ。でも、どんなにボロボロになったとしても、断崖絶壁と広大な荒野と清らかに澄んだ青空に取り囲まれた彼らの生活は、いまのような時代だからこそ逆に可能性があって素敵に見える。もちろん部外者だからそういうふうに見えるのかもしれないが、現代に生きる彼らのバランス感覚は、どんなに時代が変化しようと、伝統の核のようなものだけは失わせることはなかったはずである。その結果の千年!
昔ながらの生活に固執し、「インディアン」と自称する彼らは、航空機の飛び交う空の下で、何も変わらないことのつまらなさを耐え忍ぶと同時に、かけがえのないものが消えていくことへの抵抗をつづけているように見える。
(宇都宮美術館学芸員)