2000年06月号 掲載
前田山物語
日本経済新聞社 運動部長 工藤 憲雄
大相撲で四国が生んだ横綱は六十七代武蔵丸までに二人しかいない。その二人ともが、常識でははかれない破天荒なイメージが付いて回るのはなぜだろう。ボロ錦、けんか玉などと呼ばれ気性が荒かった三十二代の玉錦三右衛門は高知県高知市の出身。三十五代双葉山の台頭に一時代を築けず、惜しくも巡業先で盲腸炎のため亡くなっている。しかし双葉山に与えた影響、一代で小部屋のニ所ノ関部屋を大きくしたことを考えればその功績は大きい。
戦後の四横綱。
右から2人目が前田山英五郎。
その玉錦でさえ三十九代横綱前田山英五郎の奔放な暴れん坊ぶりには及ばなかったといわれる。愛媛県西宇和郡保内町出身。大正三年五月四日生まれ、本名は萩森金松という。故郷では手に負えない荒くれ者で、追われるごとく昭和四年に十五歳で高砂部屋に入門する。師匠は三代目高砂浦五郎(二代目大関朝潮太郎)。同じ伊予の西条町(現西条市)出身。その師を師とも思わぬ豪胆さで破門を繰り返した。
しかし、そんな一面があればこそ、後に神様といわれた双葉山を殺気みなぎるビンタのような張り手を交えた突っ張りで一矢報いることにもなる。
ハワイに里帰りした高見山と前田山(高砂親方)
喜須木村来木の出で、しこ名を喜木山とし、さらに佐田岬としたが、ちゃらんぽらんなところもあり国に返される。しかし、伊予の八幡浜の草相撲で性根をたたき直され再び許されて高砂部屋に舞い戻る。
昭和九年新十両。ここで右肩に当時で相撲どころではない骨髄炎を患う。幸い、後の横綱審議委員となる慶応病院の前田和三郎整形外科部長の親身の治療で一年かけて骨を削りながら膿を出して根治する。その感謝の意味からしこ名を前田山とし、三段目から再出発、本場所一番にかけるファイトの塊のような「闘将」ぶりを発揮、戦後初の横綱(昭和二十二年)へと栄進していく。
大のタイガースファンで同時入幕(昭和十二年)した鯱ノ里とともに野球の「前鯱チーム」を作り巡業しながら野球チームが対戦したことで人気があった。この野球好きが、大問題を引き起こす。昭和二十四年、大阪秋場所、初日力道山に勝ったあと五連敗、腸カタルで休場する。「東京に帰って養生してくるわ」。翌日小雨のぱらつく後楽園球場に現れて戦後初の日米親善野球を観戦する。サンフランシスコ・シールズと三原脩率いる巨人との一戦。本場所をすっぽかして一人ひょっこりと現れた横綱は、オドール監督と何回も握手してフラッシュを浴びた。これが「横綱ともあろうものが、場所を休んで野球見物とは何事だ」と協会の怒りを買い、引退を余儀なくされる。元来横綱昇進時に「別に粗暴の振る舞いある節この免許を取り消す」と一札が入っていた横綱でここぞとばかりにカードを切られたのだった。
もっともこれが縁で日米親善野球を差配したGHQが申し訳ないと、大相撲の米国行きを企画、引退した前田山(高砂親方)は勝負検査役に就任していたが、大相撲紹介のため、力士三人を引き連れ、ハワイから全米の各都市を一巡し大人気を博する快挙を達成。破天荒ゆえにスケールも大きかった。
協会では常務取締役と協会国際部長を仰せつかり、ハワイでの高見山発掘から小錦という個性的な高砂部屋の潮流につながっていく。
四人迎えた夫人は全員が川之石高等女学校卒。野球だけでなく社交ダンス、囲碁(四段)、ゴルフ(ハンディ8)という趣味でも人並みでなかった。
写真提供/保内町教育委員会
前田山の故郷、西宇和郡保内町、喜須来小学校の校門の前にある銅像。
前田山の故郷、西宇和郡保内町、喜須来小学校の校門の前にある銅像。
前田山の故郷、西宇和郡保内町、喜須来小学校の校門の前にある銅像。
前田山の故郷、西宇和郡保内町、喜須来小学校の校門の前にある銅像。