2001年03月号 掲載
めぐりめぐって
『伊予の黄檗宗の研究』のこと
『伊予の黄檗宗の研究』
中山光直氏編著(私家版千円大洲市立博物館で販売中)
『長崎崇福寺論攷』
宮田安著(長崎文献社刊・版元品切れ)
本誌を印刷していただいている豊豫社の菊池住幸社長に梅津寺の話をしたら、中山光直氏編著『伊予の黄檗宗の研究』と言う本の存在を教えていただいた。大洲市立博物館で入手。
著者が子供の頃に境内で遊んだ大洲市菅田、正傳寺の思い出から出発し、黄檗宗が伊予にどのようにして布教されたのか。多くの名僧や、その名僧たちをささえた藩主たちのことを調べ記録した書である。隠元はなぜ中国から日本へ渡海して来たのかについてなどの歴史的解説もある。著者が専門家でないと言うだけに、私など門外漢にも理解を得やすくする配慮があり、有益な黄檗宗への入門書にもなっていると思う。
雪广(せっけん)と梅津寺についても言及があった。雪广から何代か経た弟子にあたる寶林曄果(ほうりんようか)という僧が崇福寺三十二代になったことが記されていた。長崎学の宮田安氏著『長崎崇福寺論攷』中に「寶林禅師年譜」という熱のこもった一節がある。唐寺の崇福寺は維新の変革で唐船寄進銀を失ったため、明治初年には、寺の経営が全く不振に陥っていた。寶林禅師はその崇福寺の経営が最も困難を極めた時期に第三十二代の住持になって、宗門の振興をはかり、諸堂の修繕にも力を注ぎ崇福寺を護持したという。歴史記述において一切の虚飾を剥抉(てっけつ)する宮田さんが書かれたものだけに掛け値のない評価であることは間違いない。
崇福寺の祇樹林から梅津寺へ来た雪广禅師の法系に連なる寶林禅師が崇福寺の住持として苦境を支えたということに不思議な因縁を感じる。
正傳寺本堂のあった辺り
正傳寺は大洲藩に黄檗文化を伝えた拠点という。大洲市菅田、
『伊予の黄檗宗の研究』の著者の故郷の山にある。正傳寺を開いた別峯和尚は、
唐僧雪广が師事した崇福寺の千呆和尚の最初の法嗣であった。
正傳寺開山塔 別峯和尚の墓所
梅津寺本堂