2006年05月号 掲載
「てんやわんや」の地を訪ねて
牧村健一郎 (朝日新聞記者)
- 岩松橋 -
朝日新聞の土曜付別刷りとして、beという紙面があります。そこに「愛の旅人」という、いささか気恥ずかしいタイトルの企画があり、わたしはこの冬、作家・獅子文六とその妻を描くため、文六が戦争直後、二年間滞在した宇和島市津島町を訪ねました。
ご存知の通り、この地は代表作「てんやわんや」の舞台であり、また「大番」の主人公、株屋のギューちゃんの出身地にも想定されています。自伝的作品「娘と私」にも描かれ、映画「てんやわんや」ではここでロケがあり、撮影隊とともに佐野周二、淡島千景らがやってきたときのにぎわいは、今でも語り草です。
昭和二十年十二月、文六は妻静子さんの故郷・津島町岩松に、妻と娘巴さんを連れて、やってきます。当時、一家が住んでいた神奈川県・湯河原あたりは住宅・食料事情が悪く、しかも戦犯作家として訴追される噂も聞こえ、思い切って、行ったこともない四国の奥へはるばるきたのです。
文六にとってこの地は「別天地」でした。海が近く食べものは確保でき、寄宿した素封家が好人物で、飛び込んできた窮鳥をやさしくだきかかえるように、一家を大切にします。瓦屋根の町並み、白壁の土蔵、シロウオのとれる清流。戦争直後の荒々しい世相を横目に、文六はここで静かに暮らし、二年間の特別休暇をとるのでした。
宇和島から津島町まで、当時は木炭バスが松尾峠をあえぎながら登って二時間かかったという道のりが、今では山腹を貫く大型トンネルを抜けてわずか十五分。岩松川に沿った津島町に着きます。
町の印象は? 正直なところ、「別天地」の面影は見えませんでした。まあ時代も状況も違うのであたりまえですが、便利になった分、旧道沿いの商店街のシャッターは軒なみおり、人通りは少なく、わずかに残る白壁も傷みが目立ちます。三軒あったという造り酒屋はみな閉めたそうです。少し山に入ると、砂利の採掘なのか、赤土むき出しの痛々しい山肌が目に付き、ダンプカーが砂埃をまきちらします。近く三本目のトンネルが開通するそうで、工事車が出入りしていました。
そんな中、昭和初年にかけられたと聞いた岩松橋は、独特の風格をたたえ、こころ和む思いでした。文六もこの橋を渡って散歩にでかけています。同行のカメラマンは早朝、川原へ下り、川面に朝霧がかかり、鳥たちが舞う姿を撮影、この写真はbeで大きく載り、好評でした。記事は「獅子文六と三人の妻 妻の故郷は別天地だった」という見出しで二月十一日付で掲載しました。
記事が掲載されると、多くの人から手紙をいただきました。わたしは新聞記者を三十年近くやっていますが、もっとも反響のあった記事のひとつといえます。いくつか紹介しましょう。
「こんにちは!いつも楽しく拝読しています。今回の獅子文六の『てんやわんや』の津島町出身です。『てんやわんや』に出てくるまんじゅう食いのモデルとされる浅野政美さんに、高校生の頃、お会いした事があり、とても懐かしい思いで読みました。時々帰郷する田舎は、今でも時間が止まっている感すらあります。大好きな田舎です」。横浜にお住まいの女性。今回の取材で、この浅野さんのご子息藤男さんにもお目にかかりました。
「愛の旅人、てんやわんや、懐かしく拝読しました。私は宇和島出身で、闘牛牛を飼っていました。映画で元当家の牛が出場しました。佐野周二、淡島千景さんだけでなく、桂木洋子さんも出演されていたことも印象に残っています」。この方は千葉県習志野の七十二歳の男性です。映画「てんやわんや」には確かに闘牛シーンがあり、土俵上の二頭の牛をかなり長くカメラが追っています。このうちの一頭がこの方の持ち物だったのでしょうか。
「今回は私のふる里の近くでとても懐かしく、写真の段々畑を見ていると帰りたくなりました。子供の頃、牛鬼まつりにも行きました」。大阪の七十歳の女性です。記事には、宇和海をのぞむ段々畑の写真ものせています。長く故郷を離れ、都会に暮らす年配の方は、子どものころ過ごした土地へ、格別の思いがあるのでしょう。
実はこの三通は、読者プレゼントの応募のはがきに書いてあるのです。毎回、物語にちなんだおみやげを現地で買い、それを抽選で五人程度の読者にプレゼントします。今回は宇和島市の黒田旗のぼり店製の、牛鬼をプリントしたTシャツを五人の方に差し上げました。毎回約二千通ものはがきが寄せられるのです。
ほかに、文六が戦前、東京・千駄ヶ谷に住んでいる頃、家族ぐるみのお付き合いをし、静子夫人の手料理を頂いたことがある、という女性からお便りがありました。巴さんと同年代でこの半世紀、消息が絶えている、ぜひお会いしたいので、巴さんの連絡先を教えてほしい、ということです。記事には、東京にお住まいの巴さんのインタビューも添えたので、依頼がきたのでしょう。巴さんに了解をえた上、連絡先をお教えしました。後にこの方から、「こんどお目にかかることになりました」という弾んだはがきがきました。
「海軍」を読んで感動したのが昨日のことのようだ、「てんやわんや」をまた読みたいので図書館でさがそう、という便りもありました。こうしたはがきを読むにつれ、獅子文六は再び光を当てるに値する作家だ、と確信しました。