2003年07月号 掲載
『競馬と私』ダービーの血統学 後編
吉沢 譲治(伊予市出身)
第70回東京優駿・日本ダービー(G1)サラ系3歳2400m 芝・左牡・牝(指)オープン 定量 天候/曇 芝/重
着順/1、枠/7、馬番/13、馬名/ネオユニヴァース(牡3歳)、負担重量/57.0kg、騎手/M.デムーロ、
タイム/2分28秒5、馬体重/486kg-2、調教師/瀬戸口勉
私の競馬暦は昭和五十六(一九八一)年から始まっている。大学を二十六歳で中退し、社会人としての第一歩を踏み出したのも、この年であった。振り返ってみると、これまでの人生で節目となった出来事や出会いが、不思議なほどこの年に集中している。
私たち昭和三十年前後に生まれた世代は、大学に入った年が第一次オイルショックで、出る年が第二次オイルショックというダブルパンチを食らった世代である。日本中を不況の嵐が吹き荒れ、企業の採用中止も相次いで、厳しい就職難を経験した。
そんな時代にあって、授業をさぼってアルバイトに精を出し、あげくに中退してしまった私は、どうしようもない極楽トンボだったというしかない。どうせ卒業したってという絶望感が、就職に対して無気力にさせていたように思う。だから、いまの若者たちの気持ちがわからないでもない。
その私が競馬の魅力に取りつかれ、サラブレッドの血統を扱う仕事と関わりができたのは、作家の岩川隆さんに弟子入りしたのがきっかけである。大学をやめて本来なら、アルバイト先のインテリア家具会社(社員五人)に、そのまま就職するはずだった。ところが、そこの社長が「就職試験をやるから、作文を書いてこい」という。こんなちっぽけな会社が試験なんてと思ったが、暇だったものだから三本ほど書いて持って行った。
すると、それを読んだ社長が「おまえ、書いてメシを食ってみろ。ダメなら、うちに入ればいい」と、ある経済ジャーナリストを紹介してくれた。以後、大手出版社の編集者、ノンフィクション作家と、相次いで救いの手を差しのべてくれる人物が現れ、半年後、岩川さんにめぐりあうのである。
将来何をしたい、何になりたいというはっきりしたものは、まだなかった。ただ漠然と人まかせ、風まかせで生きていただけである。それなのにこの間、以後の私の仕事を決定づける人物が、次々と現れた。いま、あれは先祖の血が引き寄せてくれたのかなと、ふと思ったりする。
私がサラブレッドの血統に興味を持ったのは、ひとつの共通点があったからだった。サラブレッドは近親繁殖によって改良淘汰された動物である。しかし度が過ぎると、精神や肉体が脆弱であったり、生命力、繁殖能力が弱かったりすることがよくあった。
私の家系も先祖代々、血縁同士の結婚が続いてきた関係か、そうした弱さを引き継いでいた。私が生まれ育ったのは唐川びわの産地で、住所は伊予市だが、かなり山あいの僻地である。山々に囲まれ、空は三分の一程度しか見えなかった。
先祖は父方も母方も、元々は大洲か八幡浜あたりにいたらしい。いまから四百三十年ほど前、元亀・天正のころ、四国の西半分は大野直昌が領有していたが、土佐の長宗我部元親に攻め入られ、久万笹ヶ峠の戦い(上浮穴郡)で、主の直昌以下、侍大将のほとんどが討ち死にした。私の母方の血統が家老職、父方の血統がその下の職にあったとかで、『大洲旧記』には討ち死にした侍大将として、父母系の先祖の名が出てくる。
この後、一族は伊予市周辺の山々に逃げのび、お家の再興をはかろうとしたが、徳川幕府の世となって性を隠して土着した。しかし一族の血を守ろうとするあまり、それ以外との縁戚は長く拒んできた。私自身、父と母は「いとこ」と「はとこ」の関係にある。サラブレッドの世界では、これを「奇跡の血量」といって、名馬を生み出す基本配合として信奉している人が多い。
だが、両親から伝え聞くかぎり、また私自身から判断するかぎり、弊害の部分が多いような気がしてならない。JRA馬事文化賞を受賞した『競馬の血統学~サラブレッドの進化と限界』は、その思いから書いたものだった。先祖の血が「書け」と命じ、受賞に導いてくれたようなものである。
私には三人の子がいる。妻は東京の血統だから、 完全なる異系繁殖 である。そのせいか、みな丈夫に育ってくれている。ひ弱な父系の血に、母系が強い生命力を吹き込んでくれたのだろう。あとは今年の日本ダービーを勝ったネオユニヴァースのように、名馬に育ってくれればいうこうとなしである。だが、わが子三人の場合、父系も母系も血統が血統だけに、そう期待はかけられそうにもない。