1998年12月号 掲載
故郷への手紙 玉春日 良二
 
インタヴュー・構成/工藤 憲雄
日本経済新聞社 運動部次長・編集委員

野村町惣川、生家のあたり
 九州場所からお便りします。博多から車で四十分くらいの宗像郡津屋崎というところに片男波(元関脇玉ノ富士)部屋があります。東宇和郡野村町出身という、山育ちの私にとって、コバルトブルーの海がすぐ見える九州のこの宿舎は、また格別のものがあります。果てしない玄海の大海原を前に鋭気を養いながら頑張っております。
 お相撲さんにとって、故郷はいつも身近にあり、ありがたい存在です。「シルクとミルクの町」と言われる野村町に帰ると、滞在時間は短いのですが、いつも触れ合いを大切に、わいわいやって心が和むのを感じます。私の生れた惣川には 「玉春日の生家」という道案内の看板が立っていますが、恥ずかしいやら照れ臭いやらです。家は、川戸というバス停から十分ほど上がったところですが、本当にこんなところに人が住んでいるのだろうかというくらい大いなる田舎です。本当に何もないんですよ。


 両親も健在で帰るのは年に一回、十一月の乙亥相撲の時だけです。長い伝統のあるこの相撲大会が、私のふるさとの自慢でもあります。今年もこの場所が終わると千秋楽の翌朝、朝早く船で四国に向かいます。このところいつも高知出身の土佐ノ海関と帰るのですが、今年は私と寺尾関が顔を見せます。
 私の相撲の原点もこの乙亥相撲にあると言っていいでしょう。多少体が大きかったせいか、「春日館」という相撲道場で小学四年生の時から相撲をとりました。というよりとらされました。ですから、当時は、相撲がいやでいやでたまりませんでした。そして、乙亥相撲で野村町チームに加わったのが本格的に相撲と取り組むきっかけになりました。
 先輩・後輩の関係が厳しかったですね。それが良かったのかもしれません。六人兄弟の末っ子で上の姉と七つも違うのですが、父の法真はしつけに厳しい人で私を甘やかすようなことは一つもありませんでした。兄弟の大半は関西方面におります。
 村の家々を訪ね歩いて杯をかわす度に皆さんがいかに応援してくれているのか怖いくらい分かります。本人は一生懸命、相撲やるだけなのですが、やはり田舎に残っている両親たちは勝った負けたで大変な思いをしているようです。いいときはそれでもいいのですが、体調が悪くて負けがこんだりすると「何だ、こんなのか」などというのが聞えてくるんだそうです。こういうときは、応援してくれる人とも顔を合せづらくなるようです。
 やはり勝負には波があります。土俵でのケガで公傷となっても一場所しか休めません。半年かかるようなケガはざらです。私もいろいろなケガを経てようやく調子を戻しつつあります。野村町には目が肥えている人が多いのでつらいものがありますね。九州場所で勝ち越して胸を張って故郷に帰るのが、新しい年を迎える最高の締めくくりとなります。

州場所津屋崎の片男波部屋での玉春日
本名松本良二、昭和47年1月7日生れ、26歳。 愛媛県東宇和郡野村町大字惣川出身。惣川小、野村中、野村高、中央大学法学部政治学科卒。 平成6年初場所デビュー。平成7年3月新十両、8年1月新入幕。敢闘賞2回、技能賞1回、殊勲賞1回。
写真 工藤 憲雄
 片男波部屋は最近、活気づいてきました。玉力道のほか玉ノ洋、玉ノ国の岡部兄弟など私同様大学出の学生相撲がぐんぐん番付を上げてきています。早く追いついて欲しいと願う毎日です。
 片男波は先代の師匠も含め乙亥相撲に全力で取り組んできました。そういう縁があって私もこの部屋にお世話になった次第です。大学に進んでもそれほど相撲が好きでなかったのに、幸運にも、全日本アマチュア選手権で八位以内に入りプロの道に進みました。
 平成六年の初場所幕下付け出しで相撲界にデビューして丸五年。幸い七場所で関取になることができました。厳しい相撲の世界ですが、やりがいはあります。同期の土佐ノ海関や武双山関に負けずに、自分の持ち味である押し相撲に徹して精進していきたいと思っています。故郷の皆様の応援を心の糧に頑張っていきます。応援よろしくお願いします。

平成十年十一月十九日