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2009年12月 掲載
山頭火を訪ねて、野村朱燐洞に出会う
 
 岩田三代(日本経済新聞論説委員兼編集委員)

- 松山市小坂の阿扶志(あぶし)共同墓地にある野村朱鱗洞の墓 -
市中から新立橋を渡り、小坂町のバス停を過ぎてすぐ、第一印刷の角を左折して、細い路地に入り、突き当たりを左折するとすぐに墓地がある。共同墓地の北側、道路から10mほど中に入った場所にある。(12月2日撮影)
 「風ひそひそ 柿の葉落とし 行く月夜」 なんとも澄み切った句だ。俳句にはまったく門外漢ながら、自然の近しさ美しさ、人間の孤独と人恋しさ、そして一人布団の中で外の音にじっと耳を澄ましている作者の息づかいまで感じてしまう。この句の作者は、わずか26歳で逝った自由律俳句の天才、野村朱燐洞(朱鱗洞とも)だ。
  彼の名前を初めて聞いたのは、日本経済新聞夕刊の「文学周遊」執筆のため種田山頭火の取材に松山を訪れたときだった。愛媛は私のふるさとであり、高校、大学と松山で過ごしたが寡聞にして朱燐洞の名は知らなかった。そんな私に取材相手が語ったのが「実は山頭火は朱燐洞に深く心酔し、松山を訪れたのもここを終の棲家に定めたのも彼の影響が大きかったのです」の言葉だ。「え、だれですかその朱燐洞って」というのがそのときの正直な感想だった。
 野村朱燐洞は本名、野村守隣(もりちか)。1893年に松山市小坂町に生まれた。少年時代から文学の才を発揮し、18歳で愛媛新報の俳壇に入選。翌年には「十六夜吟社」を結成し主宰となった。わずか20歳で海南新聞俳句欄の選者にもなっている。さらに荻原井泉水が自由律俳句の雑誌「層雲」を創刊するやこれに参加して選者となった。その才能は師の井泉水がひそかに自分の後継者と期待するほどだったという。だが、若き才能は当時、多くの人の命を奪ったスペイン風邪のためにあっけなくもぎ取られる。これからというときの悔しさは想像にあまりある。
 だが、残された句はその才を十分に伝える。
「小さき火に炭起し 話し暮れてをり」
「するする日がしずむ 海のかなたの国へ」
生きていたらと惜しまれる輝きだ。
 種田山頭火も彼の才能を慕った。同時期に「層雲」の課題選者になり、互いに才を認め合っていただけに突然の死は深い喪失感を与えたようだ。「一すぢの煙悲しや日輪しづむ」。山頭火が朱燐洞を追悼して詠んだ一句に落胆と悲しみがこめられている。


 1939年、山頭火が58歳のときに松山を訪れた目的は朱燐洞の墓参りだった。死後22年がたち、当初聞いていた場所に墓はない。なかなか探し当てられず、友人、知人が手を尽くしてなんとか所在を突き止めた。それを聞いた山頭火は酔いも吹き飛んだ風情で夜中の墓地を訪ね、雨が降りはじめた墓地で朱燐洞の墓に線香をたむけ涙を流し何度もその墓石をさすったという。そしてその足で四国遍路に旅立った。その後、終の棲家となった一草庵で、高橋一旬氏らと「十六夜社・柿の会」を開いたのも亡き友への愛惜の情からだったのだろう。
 私も山頭火の取材の最後に、愛媛の友人である二宮崇さんと一緒に朱燐洞の墓を訪ねた。松山市の文化財課の職員から聞いた墓のありかは石手川近く、立花から少し上流に行ったあたりの阿扶志(あぶし)共同墓地だ。目印の印刷所などを聞いていたもののなかなか見つからない。車で何度か往復したあと近所の方に聞き、なんとかたどり着いた。今や住宅街に埋没した墓地は、狭い道路に面した本当に質素なたたずまいだった。小さな墓石が並ぶ墓地をあちこち歩き、二宮さんが「野村朱鱗洞之墓 十六夜柿の会」と書いてある白い杭をみつけた。墓石は高さ1メートルにも満たない小さな小さな墓だ。だが、1メートル×1・5メートルほどの墓所にはツクシが顔を見せ、タンポポやオオイヌノフグリが咲き誇り、春があふれている。周囲の墓は何もないのになぜここだけがこれほど自然が残っているのか。夭折の天才を取り囲む自然の美しさにこころがなごんだ。財もなく若くして死んだ朱燐洞の墓は姉によって建てられたという。貧しさの中で珠玉の言葉をつむいだ俳人が眠るのにふさわしい素朴さなのかもしれない。
 取材から半年以上たった12月初めにこの一文を書いている。風がひそひそと柿の葉を落とし、月の冴え渡る日が増えてきた。春の花に囲まれていた墓は、今、枯葉に埋もれているだろうか。