第12回
倉敷・児島日記 その2
下津井電鉄廃線を通って倉敷へ
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- 鴻八幡宮(こうはちまんぐう)の参道 -
下津井電鉄廃線を通って倉敷へ(2011.10.9~10)
倉敷に来て半年が過ぎた。児島下の町の鴻八幡宮の秋の祭礼の日、自転車で下津井電鉄の廃線跡を往復して倉敷市街に行き、酒津の倉敷堤窯をたずねて児島にもどった。自転車で児島から倉敷に出かける定番のコースだ。
- 下津井電車廃線の自転車道。稗田付近 -
児島の秋祭り
児島の秋の祭礼は、町中が盛り上がる。児島にきた時に、アパート近くで遊ぶ子供たちの姿が多いのに驚いたが、初めての秋祭りの活気にも目を瞠った。ちょうど長く続いた暑さが急に一段落した祭礼の日の数日前のこと、夕食を外ですませて、自室でゆっくりしていると、祭囃子の笛の音がどこからともなく聞こえて来た。高く、少しかすれた笛の音は、他所者の私さえ、なつかしく、哀切な感じに誘われる。祭礼に向けて練習をしているのであった。
祭礼の当日は快晴だった。鴻八幡宮(こうはちまんぐう)の前の県道は終日通行止めとなり、各町々の山車が道路いっぱいの行列で集まってくる。通行止めの場所以外も車は動きにくい1日となる。私はアパートから自転車で山側の旧道を通り、下の町の鴻八幡宮に向かって走った。参道は祭りの衣装に身を固め人で埋まり、たいへんな賑わいだ。かなり先に山車の上で扇を振りながら、掛け声を掛けている人の姿が見える。私はしばらく、自転車を押して歩きながら、両側に櫛比する露店をひやかしたりした後、神社に向かって一礼し、参道から入って1本目の路地を右に曲がって稗田の方に向かった。稗田の交差点で道をまっすぐ上がって行くと右手に黄色い建物の床屋さんがある。その床屋さんのすぐ先から下津井電車跡の自転車道に入る。初めてこの自転車道路を走った時に、ここで一旦途切れている自転車道がどこに続いているか、仕事の手を止めてご主人が親切に教えてくれた。
- かつての藤戸駅跡 -
- 藤戸饅頭本店 -
近くが源平藤戸合戦の跡
- 天城教会 -
明治23年(1890)築。愛媛今治の大工吉田伊平が高梁教会に続けて手がけた。倉敷では新島襄が1878年に訪れたのをきっかけに伝道がはじまったと言う。今治教会の伊勢時雄も後に同志社の総長になった。
- 水路に面した天城の民家の美しい石垣 -
藤戸から天城へ
今日は、ここからかつて茶屋町まで走っていた下津井電鉄の跡を藤戸から天城まで走り、天城から倉敷川の堤防の道とや田圃の中を走る道を適当に走って倉敷に入るつもりである。
歩道に上がって、床屋さんの前を過ぎ右手に上がると、3メートルほどの巾の自転車と歩行者専用の道がはじまる。ここから二キロほどは、小さなアップダウンがあるが、倉敷までは登りらしい登りはない。時々、散歩している人や自転車で走ってくる人に出会うが人通りもそれほどはない。少し離れて見える国道や県道や高速道路が出来たから、このあたりの風景は経便鉄道が走っていた頃とはかなり様変わりしているだろうが、道の両側は木々に囲まれているし、海辺の児島から少しずつ登って稼いだ標高のお蔭で、右手に道が大きくまわるあたりでは、農家や田圃の長閑な風景も楽しめる。道の脇に大きな池も2つある。自転車道が国道の歩道と一緒になったところで、左に入り、小さな川沿い道を通る。1キロほど道なりに田園風景の中を走って行くと、また自転車道に行き当たる。迷ったところでたいしたことはない。自転車道は、大原總一郎が好んだという藤戸饅頭の工場と店舗の裏側を過ぎたあたりからまっすぐ、ゆるやかに藤戸の坂に向かって登って行く。県道を藤戸の切通しの手前で斜めに横切ると山が右手になり、左手に田圃が広がる。右手の山が切れ、車道と交差する手前に藤戸駅の小さなホームが残っている。車道を横切り、田圃の中を走って行くと倉敷川を渡る小さな橋がかかっている。かつての鉄橋を転用したものらしい。橋を渡ってすぐ左の堤防の道を行くことにする。二三分で藤戸饅頭の本店に近く、海を渡る佐々木盛綱の騎馬像がある盛綱橋の袂に出る。佐々木が藤戸海峡の浅瀬の場所を聞いた若い漁師を口封じのために殺害し、後難を恐れてお経を埋めたとかいう経ヶ島は、向かいの魚屋さんを見ながら、右に曲がってすぐ右の路地の奥にある。つきあたりを左に曲がるとすぐ先に、擬洋風の小さな教会の建物が見えてくる。備中高梁教会と同じ、伊予の今治の大工が建てたものという。今治に明治の教会の建物は現存しないが、今治で明治に初めて教会を開いたのは熊本の横井小楠の長男、伊勢時雄である。若い徳富蘆花も伊勢時雄をたよって今治で暮したことがある。
<参考記事>
それはともかくとして、この下見板張りの教会の建物はとてもすばらしい。牧師さんにお願いして中を見せていただいたこともあるが、内部も、建物をつくった人々の思いが伝わってくる質実な美しさに満ちている。
- 天城陣屋の跡に立つお茶屋跡の碑 -
- 静心寺に移築された陣屋の門 -
教会の向い側の立派な民家の軒先には竜吐水がかけられている。天城は岡山藩池田家の一族、天城池田家の陣屋町の跡で、今も海鼠壁や連子格子の美しい民家が数多く残っている。天城池田家二代の池田由成は江戸時代前期に、当時徒(かち)渡りであった天城・藤戸の間に藤戸大橋と小橋を架け、岡山城下から妹尾、早島、児島、下津井に到る四国街道の利便性を大いに高めたと言う。天城の陣屋は天城高校の正門の手前左の細い急な道を上がった高台にあるサブグランドの場所にあった。グランド入口の大きな楠の木の前に碑が立っている。その陣屋の門が近くにある真宗大谷派静光寺に移築されているというので、立ち寄ってみたら、門の脇に赤穂事件の大石内蔵助の祖母の墓所という標柱が立っていた。
- 静心寺入口 -
- 倉敷川に架けられた盛綱橋 -
倉敷へ
天城からは、県道を離れて浦辺鎮太郎設計の倉敷市役所の塔を目印に倉敷川に沿って走り、道が尽きたら適当に田圃の中の道を選んで「美観地区」をめざす。いつも、でたらめに走るが、あの異形の塔のおかげで迷ったことはない。
- 大原美術館 -
観光客がひしめく「美観地区」の核心部は自転車を押して歩き、大原美術館の隣の喫茶店「エル・グレコ」で休憩する。私はここのミルクセーキが好きだ。汗が引いた頃、今橋を渡って大原邸と有隣荘の間を抜けて本町通りへ。融民芸をのぞいたり、日もちのしない「むらすずめ」を買ってリュックに入れることもある。今日は、お昼が近いので、えびす通り商店街のとんかつやさんに行った。店の雰囲気がきりっとしているし、味もよい。アーケードの中にあって休日は地元の常連客より観光客の割合が多く、混雑している時もある。倉敷に来て思ったことだが、倉敷は観光地化しているが、観光の毒がつきにくい町であると思う。美観地区のいかにもという派手やかな店に入っても極端にがっかりすることはない。他所者が商売のしにくい土地というせいもあるかもしれないが、商売気にもプライドがほの見える。
- エル・グレコ 大原總一郎の発案で出来た喫茶店 -
ミルク・セーキ
- えびす通り商店街のとんかつ屋さんで -
お昼を食べた後、倉敷中央病院の方を通って大島の交差点から山陽線をくぐって北口に出る。町が尽きて田圃が広がる所まで走り、祐安のあたりでは、高梁川から引いた用水にある水車を見ながら、酒津公園の方へ向かって走る。右手の山には白いクラレの中央研究所があるので方向を過つことはない。細い祐安踏切で伯備線を越え、右に行って高梁川の手前を左折。用水の水門の側の喫茶店へ。珈琲とケーキを注文。静かで気持ちの良い場所だ。ゆっくり休んで、大原家の別荘「無為村荘」の土塀に沿って、一見行き止まりのような細い急坂を登り、下って左折、酒津公園の駐車場に出る。そこから用水沿いに走り倉敷堤窯へ。今日は、そのまま倉敷市内へ車の少ない道を選びながら戻った。廃業した銀行の建物がそのまま古書店になった長山書店をのぞく。在庫の豊富さはたいしたもので、書棚を見ていると時間の経つのを忘れる。長山書店から左に入って、天城まで来た道をそのまま引き返す。店が開いていれば藤戸饅頭を買って帰ることもある。
倉敷に来てから、自転車で走るのは、この平坦な道がほとんどである。祐安から浅原峠を越え吉備の国分寺の塔を見て帰ること、さらに吉備津神社から岡山に出て玉野から渋川海岸を通って帰ることもあるが多くはない。愛媛にいる頃に比べると遠出がずいぶん減った。
- 融民芸 -
本町の阿知神社のそば
- 倉敷考古館。 -
建物も展示もすばらしい
- エル・グレコの店内 -
- 酒津の用水の水門に近いカフェのケーキ -
- 倉敷堤窯 -
- 吉備国分寺 -
- 吉備津神社回廊 -
本殿の建築は国宝。駐車場に朝倉文夫の犬養毅像が立っている
- 渋川海岸 -
かつて西行法師がおとずれ、讃岐に渡った。「下り立ちて浦田に拾ふ海士(あま)の子はつみ(つぶ貝)より罪を習ふなりけり」の歌を渋川で詠んだという
- 倉敷中央病院 -
- 高梁川の用水 -
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