漱石を読んでいると、つくづく、作品中の人々の暮らしと現在とではずいぶんと変わったなと思わせられる。ま、当然と言えば当然なことで、その間(かん)には百年という歳月が経っているのだから。
変わったものは数知れないが、例えば「書生」。辞書を引くと、勉学中の青年の意と、他人の家の家事を手伝い、食べさせてもらいながら勉学する人の意がある。どちらの意でも現在ではほとんど死語に近いが、ここでは主に後者の意の書生を指す。死語と言えば、そうした書生にまつわる苦学とか苦学生といった言葉も今や消えてしまった。
かつては、勉学はしたいが金がないという若者が多くいて、一方でそれを援助するために(だけでは無論ないのだが)そうした若者を自宅に住まわせる富裕層が多くあった。また現在と違い、それを可能にする構造を持った住宅が多くあった。果たして今日、書生を自宅に寄寓させている実業家なり有識者なりがどれほどいるだろうか。
漱石作品中に、書生は頻繁に登場する。『三四郎』での与次郎も、広田先生の家に寄寓する書生だが、これは先生を尊敬するあまりみずから住みこんだいわば押しかけ書生なので、与次郎本人の意識としては書生というよりも弟子といったところか。
そうした意味では、『それから』の門野は純然たる書生である。とは言ってもこの門野、はなから勉学する気はさらさらない書生なので、純然たる書生と言えるかどうかはちょいと怪しいのだけれど。
それはともかく、人生に何ら積極的な目的もなく、その日その日を漠然とノンシャランに生きている書生の門野は、主人である代助の姿をより鮮明に写し出す鏡と言えるだろう。つまり、代助と門野はその本質においてこれほどかけ離れた人間もいないのだが、世間的な見方によってはこれほど似たり寄ったりな人間もいないのかもしれない。
『それから』で門野という書生の存在がいかに重要であるかは、次の点から言える。作品冒頭近くで、門野は書生の勤めとしてその日届いた端書と封書を代助に手渡す。端書は平岡夫妻が東京に戻ったという知らせ。封書は話があるから家に来いという父からの呼び出し。『それから』という物語は、三年ぶりの平岡夫妻、とりわけ妻の三千代との再会がもたらす代助の心の変化、一方で父が強く勧める代助の見合い話、この二つの綱引きによって進行する。つまり、代助の運命を後に左右することになる二つの予告は、書生の門野によってもたらされるという訳だ。
そして、人妻である三千代との愛を公にすることで父から勘当された代助が、仕事を見つけに日盛りの町なかに飛び出して行くのが『それから』のラストシーンだが、その時の代助の台詞が、「門野さん、僕は一寸職業を探して来る」である。だから、少しばかり強引に言えば、『それから』は書生の門野の手によって始まり、書生の門野への呼びかけによって終わることになる。
この書生よりもっと頻繁に登場するのが、例えば「下女」。おさん(台所仕事の意のおさんどんの省略形)とか小間使いとも呼ばれたが、最も一般的な呼称としては下女。この下女は、その後、女中、お手伝い、お手伝いさんと呼び名を変えてゆくが、当時の下女と現在のお手伝いさんとの圧倒的とも言える違いがある。それは、今の感覚からすればまさかこんな家に、と思うような家にもちゃんと下女が雇われていることだ。
『それから』において、長井家や代助の家に下女がいるのは納得できるが、借金を抱えて退職し、東京で新たな職を求めて奔走している平岡の家にもなんと下女がいるのだ。三千代の体が弱いということはあるにしても、平岡クラスの生活レベルなら現代だったらお手伝いさんを雇うことはあり得ないだろう。第一、他人を一人住まわせるだけの住空間がないだろう。
『門』での宗助、お米の家にも下女がいる。雨が降れば底から水が沁みてくる靴を一年中はきつぶし、一張羅の外套の新調もままならぬ身の腰弁生活をしている宗助が、下女を雇って住まわせているというのも、何だか不思議な気がする。しかし、当時の暮らしでは取り立てて珍しくなかったにちがいない。平岡も宗助も、まあ中流の下といったところか。そんな彼等が下女を雇えたのだから、当時と今とではどちらが豊かなのだろうか。
下女という存在が現代よりもずっと一般的だったのには、無論それだけの条件がある。まずは、その頃の女性の働き口がほとんど限られていて、食べて寝て僅かながらでも給金がもらえる真っ当な職業は、下女ぐらいしかなかったこと。次に、その下女を住まわせる四畳半とか三畳間の部屋が、まがりなりにも庶民階級の家の構造に組みこまれていたこと。そして、家の中に他人を入れて同居するという暮らし方に抵抗がなかったこと。
いずれも現代の生活様式とは大いに異なる。充分とは言えないにしても、女性の就職先は明治と比べれば格段に広がった。仕事を選ぶのに、最初にお手伝いさんを考える現代女性はおそらく皆無だろう。また、他人を入れてもさして支障のないほどの家を持っている普通のサラリーマンが、今どれほどいるだろう。それに、核家族化が進行している現在、他人と生活を共にすることに昔よりも違和感が増しているにちがいない。となれば周囲を見回しても、今お手伝いさんを置いているのは相当なお金持ちに限られるのではないだろうか。平岡や宗助が下女を雇っているということが、何だか夢のように思われる。
この下女よりもっと、というわけにはさすがにいかないが、それでも結構目につくのが、例えば「妾」。少し前までなら二号、今なら愛人。ただ、イメージだけから言えば、妾は一軒家で、愛人はマンションか。愛人には無論、愛する人、恋人の意があり、漱石の頃はもっぱらその意で用いられた。代助が三千代に愛を告白する場面で、「代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩(あや)を含んでいなかった」、というように愛人の語が使われている。
代助の父は、妻の生存中からか死後からかは不明だが、「好い年をして、若い妾を持っているが、それは構わない。代助から云うとむしろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限って、蓄妾の攻撃をするんだと考えている」。父が妾を持ち、息子の代助がそれを格別異にしない。いや、むしろ肯定している。代助はたしかに特殊人(オリジナル)ではあるが、妾というものに対しての、今とは違う当時の感覚が感じとれる。
ついでに言えば、『門』の宗助の父にも、これも妻の生前からか死後からかは不明だが、二十五六になる妾がいて、父の死後、宗助は相当の金を与えて妾に暇を出す。また、『こころ』で若き先生の金を使いこんでしまう叔父も妾を囲っていた。当時のちょっとした富裕階級では妾は一般的であった、と言えるのか。
見合い話をしぶる代助に嫂の梅子が決断を迫った時、代助はこう思う。「生涯一人でいるか、或は妾を置いて暮らすか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画はまるでなかった。只、今の彼は結婚というものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持てなかった事は慥である」。結婚にそう積極的でない三十歳の独身男が、仮に金に余裕のある身とはいえ、妾を置いて暮らすかと考えつくようなことは、当今の30独身男には及びもつかない発想だろう。
「妾小説」(というのがあるのかどうか知らないが)の代表的名作と言えば、何と言っても森鴎外の『雁』である。大学の小使いをしながら、学生達の小用の駄賃を細々と貯えることで高利貸しになった末造が、不実な男との結婚生活に破れたお玉を妾に囲う。現代の愛人なら、1LDKのマンションを買うか借りるかするぐらいですむが、当時は違う。末造はまず無縁坂に一軒家を借りてお玉を住まわせ、そこに下女を雇う。さらに、ほど近い場所に一軒家を借りてお玉の老父を住まわせる。そして、ここにも下女を置く。これって、単純に凄くないか!
大学の小使い上がりの、たかが市井の高利貸し風情が(と、わざと乱暴に言ってみた)、二軒の借家を借り、四人の人間の衣食住を賄うというのは、変な言い方だが、社会に対しての経済効果という点ではなかなかのものではないだろうか。
などと、このまま続けていくと、話は怪しい方に延びていきそうなので、この辺でひとまず。それにしても、漱石の頃と今とでは、暮らしは本当にずいぶんと変わったものだなあ。例えば、書生、下女、妾、……。
<脚注>
「鴎」の字は、原文では異体字があてられていますが、Webの制約上、表示できないため変更致しました。
原文では以下の通りです。
・鴎(區へんに、鳥)