もう少し、『それから』で遊んでいたい。できれば、いつまでも遊んでいたい。ま、とりあえずは、もう少し……。
漱石は高浜虚子の小説集『鶏頭』に序を書いている。序文にしてはかなり長めの、そしてお座なりの挨拶といった類ではない内容の文章である。中で漱石は、小説の分け方にはいろいろあるが、その内の一つに、余裕のある小説と余裕のない小説の二分法があると言っている。
余裕のある小説とは「名の示すごとくさし逼らない小説である。『非常』という字を避けた小説」であり、余裕のない小説とは「一言にして云うとセッパ詰まった」「息の塞る様な」「一毫も道草を食ったり寄道をして油を売ってはならぬ小説」である。
ここで漱石は、余裕のある小説と余裕のない小説の、どちらがいいとか悪いとかを言っているわけではない。人生には余裕のある時もあれば余裕のない時もある。どちらも人生の一部である。小説も然りで、余裕のある小説も余裕のない小説もあって、どちらも小説の一部である。そして、虚子の小説は余裕のある小説である、と。
この序文の末尾には、明治四十年十一月の日付がある。つまり、明治三十七年に『吾輩は猫である』(以下、『猫』と略す)で小説家としてデビューしてから、『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』と書き継いできていた時期で、そこから考えれば、自分の小説は虚子と同じく余裕のある小説の部類に入るだろう、と思いつつこの文章を書いたと推察できる。
そこで、漱石没後の現在から遺された作品を振り返ってみると、少し大雑把で乱暴な大別になるが、『猫』から明治四十一年の『三四郎』までが余裕のある小説で、明治四十三年の『門』から大正五年の未完の絶筆『明暗』までが余裕のない小説と言えるのではないか。
因みに、前半期の作品群に漱石ならではの真骨頂があり、そのユーモアと遊びの精神こそが大いに評価されるべきだと主張する人と、いや後半期の作品群こそに大作家・漱石の神髄があり、その孤独と自立の苦悩が傑出しているのだと断言する人がいる。僕に言わせれば、そんなのはあまりに勿体ない。そのどちらもが漱石なのである。いやいや、それはそうなのだが、それだけではまだ勿体なくて、そのどちらをも一身の内に体現してしまったのが漱石なのであり、そんな作家は漱石以外にはいない、ということなのだ。
閑話休題(それはさておき)。『三四郎』までが余裕のある小説、『門』からが余裕のない小説、というところに戻ろう。では、その二つの作品に挟まれた明治四十二年の『それから』は、余裕があるのか、ないのか。
そう、そこにこそ、漱石作品中における『それから』の際立った独自性がある、と僕は思っている。つまり結論から言えば、『それから』という作品は、前半部が余裕のある小説で後半部が余裕のない小説である、ということである。ただし、小説の真ん中で画然と二つに分かれるわけではなく、『それから』という一篇の作品の中で、余裕のある小説から少しずつ余裕のない小説へと変貌してゆくのである。
だから、漱石作品を通して見た時、『猫』から始まって『三四郎』までの余裕のある小説が『それから』の前半部まで引きつづいていて、『それから』の後半部から始まる余裕のない小説が『門』へと引き継がれて『明暗』にまで至るということになる。その意味で、『それから』は漱石作品を形成している二つの大きな流れの分水嶺となる性質を持っている一作だと言える。
ところで、『それから』の前作である『三四郎』は、初めから終わりまで全篇これ余裕のある小説と言って誤りのない作品だろう。その余裕の因って来たる源は幾つもあるのだが、その一つに、広田先生、野々宮さん、そして与次郎の存在がある。世間に超然とした高校教師の広田先生、穴倉のような研究室で望遠鏡をのぞいている野々宮さん、そして軽はずみでおっちょこちょいだが人が良くて憎めない与次郎。
とりわけ、与次郎がいい。もし『三四郎』の作品世界に与次郎という存在がなかったなら、これほど膨らみのある、豊かでたっぷりとした小説にはならなかったにちがいない。それほどに与次郎の意味は大きいと言えるだろう。
たとえば、いつも馬鹿げたことばかりしたり言ったりしている与次郎が、美禰子を深く思い始めている三四郎にこんなことを言う場面がある。
「馬鹿だなあ、あんな女を思って。思ったって仕方がないよ。(略)何故と云うに。二十(はたち)前後の同じ男女を二人並べて見ろ。女の方が万事上手(うわて)だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。(略)そりゃ君だって、僕だって、あの女より遙に偉いさ。御互にこれでも、なあ。けれども、もう五六年経たなくっちゃ、その偉さ加減が彼の女の眼に映って来ない。しかして、かの女は五六年凝としている気遣はない。従って、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
都会の新しき女性に出会ってポーッとなっている若者に向かって、なかなかに的を射た、しかも思いやりも決して忘れていない先輩の助言ではないか。無論、与次郎は馬鹿ではない。男女の思うようにはならない遣る瀬なさも知っている。でも、深刻ぶらずになるべく笑ってしまおうという大人の知恵も持っている。そんな与次郎が、朴実で一本気な三四郎の隣りにいるからこそ、大らかな余裕が生まれてくるのだ。
『三四郎』における広田先生、野々宮さん、与次郎のような存在を、『それから』の前半部に探ると、代助の家の書生である門野、代助と同窓で文学で食おうとしている寺尾、そして兄・誠吾の妻である梅子といった人たちが考えられる。先走って言えば、こうした余裕派に対して、余裕のない側を代表するのが、自分の利益のために代助に見合いを強要する父の長井得であり、三年ぶりに東京に戻り就職活動に奔走する平岡ということになる。そして、梅子たち余裕派が活発に動く前半部から、父や平岡の存在が圧迫を増し、徐々に代助を余裕のない状態へと変貌させつつ後半部へ至るというのが『それから』の構造である。
代助が門野と初めて面談する時の会話は、漱石らしいユーモアと皮肉に溢れている。門野家では、兄は郵便局で働き、弟は銀行の小使いをしている。じゃあ遊んでいるのは君だけじゃないかと代助が言うと、門野はそんなもんですなと答える。家にいる時は何をしていると訊くと、大抵寝ているか、あとは散歩だと言う。他の者が働いていて君ばかり遊んでいるのは苦痛じゃないかと代助が言うと、いえそうでもありませんなと平気である。
この場面は、短い言葉のやりとりが代助と門野との間で延々と続けられるのだが、読んでいて実におかしくて笑ってしまう。門野という若者のお気楽で呑気なお調子者ぶりに滑稽な笑いを誘われるが、それを少しばかり意見がましい口調で問い質しているのが代助である点に滑稽とは別種の皮肉な笑いがこめられている。
なぜなら、外貌だけを見る世間からすれば、家中が働いているのにひとり遊んでいて何もしない代助は、門野と何ら変わりない存在だからである。作者・漱石は、主人公・代助に決してベッタリではない。代助の本質的部分にある一種の軽薄さを、笑いの中で、つまりは余裕の中で、鋭く指摘しているのだ。
寺尾は日々の生活状態から言えば、余裕があるどころか、その対極にある。安い原稿を書きまくり、期限の迫る翻訳をやり飛ばしている。しかし、その困窮ぶりには悲惨さは感じられない。好きな文学を自ら選んでやっているという自負もある。そして、代助に見せる遠慮のない騒々しさがおかしみを生む。僕なぞは、与次郎が大学を出た後の姿をつい想像してしまったりする。同じ生活苦を抱えていても、平岡の内にこもる余裕のなさに対して、寺尾にはカラ元気と飄逸さがあってどこか憎めないのだ。
けれど誰よりも『それから』前半部の余裕ある雰囲気を醸し出しているのは、嫂の梅子である。この梅子の人物造型が素晴らしい。決して新しい女ではない。かと言って古くさく固まってもいない。一家の食出者(はみだしもの)である代助への理解も、異見を加えつつ情理を尽している。無論、最終的には義父と夫に仕える身であるが、死んだ女ではない。熱い血が滾々と流れている女である。漱石は何人もの魅力ある登場人物を創造したが、梅子は断然その中の一人である、と僕は確信している。
代助は父を軽蔑している。兄を軽視している。しかし、嫂に対してはそういった感情を持ってはいない。「代助はこの嫂を好いている。この嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である」。そしてその外貌は、「背(せい)のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃い、唇の薄い女である」と描写される。これは正に漱石好みの女性である。梅子は、代助にも、漱石にも好かれている。そのことが、梅子本来の鷹揚な人柄を随所で遺憾なく発揮させる要因となっていよう。
しかしながら、そうした梅子の女性としての、人間としての魅力が、代助の見合い話を強く推し進めようとする義父や夫の圧迫が増すにつれて、少しずつその存在の影を薄めてゆく。『それから』が余裕のある小説から余裕のない小説へと変化してゆく、いわば脇役としての象徴的人物が梅子であると言えるだろう。だから『それから』は、義理の弟・代助の望みを何とか叶えさせてやりたいと願いつつ、家という重い桎梏のためにそれを諦めなければならない嫂・梅子の物語でもある、と読んでもいい。
とにもかくにも、『それから』という一篇には二つの漱石が存在する。余裕のある漱石と余裕のない漱石とが。前半から後半へと、その二つが少しずつ微妙に変化してゆく。だから、『それから』は一粒で二度おいしい。