荷風に都市散策の聖典とも言ふべき『日和下駄』と題する一代の名著あり。その真似の真似の真似にも遠く及ばねど、なほなにがしかの真似事をしたき思ひ抑へ難く、下駄の代りに靴をはき、フラリと町の風に吹かれ歩く。よつて、戯れに「靴風日和」と名付けたり。
台風18号の雨風を突いて京都へ行った。酔狂なことである。
もっとも、ホテルも新幹線の切符も半月ほど前に予約していて、変更するのが面倒くさかっただけのことなのだが。
それにしても当日は幸運な偶然が幾つも重なった。台風のスピードが当初の予定よりも早まり、その日の朝はまだ紀伊半島あたりのはずだったのが、起きた時にはもう長野に達していたこと。いつもだと大抵朝の8時台の新幹線に乗るのに、今度に限って11時半すぎの列車を予約していたこと。また、乗っていた地下鉄が大手町に着いたところで、路線全体の運行停止がアナウンスされたこと。もう一台後のに乗っていたら、手前の駅で降ろされるか、駅間で電車内に閉じ込められるかしたところだった。
結果、早朝には運休や遅延があった新幹線も、その時間には平常に戻り、大幅に遅れて着くことを覚悟していたのだが、定時に東京を発車し、定時に京都に着くことができた。
乗車時には重く暗かった空も、小田原あたりから台風一過の青空に変わり、京都に降りた時はTシャツだけで十分な日射しが照りつけていた。
京都を訪れるたびに、いつもこんな風なことを思う。
その町にいる、ただそれだけでいい。たとえどこかに出かけなくても、たとえ何かをしなくても、そこにこの身を置いているだけでいい。そんな町が僕にはある。京都とパリだ。
ヤナ・ボコーワという女性監督が1986年に撮った「巴里ホテルの人々」に(因みに、原作はたしかカミュの『転落』だったような気がするが)、外国人の主人公が何度目かにパリに来て、「パリはお前を必要としていないのに、お前はまたパリに来てしまった」とモノローグする場面がある。
これには、我がことそのもののように、ホトホト身につまされてしまう。京都にしろ、パリにしろ、僕のことなどまったく必要としていないのだ。それでも、何度も何度も、京都を、パリを、訪れてしまうのだ。そして繰り返して言えば、京都にいるだけで、パリにいるだけで、ただそれだけのことで僕は満たされるのだ。
何故か。何故そうなのか。
と、実は進んで考えたくはない。僕にとってそれは、考えることよりもずっとずっと手前で、肉体的に迷いなく感じていることだからである。考えるよりも感じる。いや、正直に言おう。感じることは幾らかはできるが、考えることは皆目できない。それが子供の時からの僕の宿痾だ。
そこでなけなしの頭を絞ってみる。けれど考え慣れていないせいで、ひとつひとつ論理を追って結論にたどりつく、ということはできそうにない。だから、いきなり結論めいたものに逢着する。
つまり僕にとって、異邦人(エトランゼ)であることの哀しみと歓びを、分かつことなく同時にふたつながらにして、味わわせてくれる町(それも官能的なまでに艶やかに)。それが京都なのだ。それがパリなのだ。
別の言葉で言えば、旅情。
それをどこよりも強く、深く、切なく、僕に感じさせてくれるのだ。
旅人であるということは、その町から拒まれているということである。よそから来てその町に入り、いくばくかの時を過ごして、やがてそこから出てゆく。それが旅人である。通り過ぎてゆく者である。
その、拒まれつつ通り過ぎてゆく我が身が、哀しみと同時に歓びを感じることができるか。そこに旅というものの意味がありはしないか。
異邦人(エトランゼ)であるが故に旅人は、日常とは異なる視点や感覚を持つことができる。詩情へとつながるみずみずしい夢を抱くことができる。通り過ぎてゆく身だからこそ、一瞬のはかなさとかけがえのなさに想いが沁みる。この、拒まれつつ通り過ぎてゆく旅人という存在が、なにがしか新しい自分と出逢わせてくれるのだ。
今回の京都も、実際、何ほどのこともしなかった。
久し振りに、法然院に谷崎潤一郎と九鬼周造の墓に参りに行ったこと。二十年以上も昔に清水のどこかの店で買ったコーヒーカップが欠けたので、それと同じものを探しに、五条坂、茶わん坂、産寧坂、二年坂と歩き、結局みつからなかったこと(そもそもこんなに時間が経っているのに、同じ店、同じものを探そうなんてこと自体が悠長な話だが、それも京都だから思いつくことで)。京都府立植物園で秋の草花を楽しんだこと。せいぜいがそんなことぐらいで、あとは寺町だの、三条だの、錦市場だの、木屋町だの、祇園白川だの、百万遍だの、まあそこいらを気の向くままにブラついたこと。
それでも僕は十分に幸福だった。だって僕は旅人で、そこは京都だったから。
もっとも、着いた日の午後と帰る日の昼と二度、伏見の「鳥せい本店」に行き、鳥料理を味わいつつ、「神聖」の大吟醸蔵出しをしたたか呑むという愚を犯してしまったけれど。