荷風に都市散策の聖典とも言ふべき『日和下駄』と題する一代の名著あり。その真似の真似の真似にも遠く及ばねど、なほなにがしかの真似事をしたき思ひ抑へ難く、下駄の代りに靴をはき、フラリと町の風に吹かれ歩く。よつて、戯れに「靴風日和」と名付けたり。
「た、た、大変だ、親分!」
「どうしたい八、なにを慌ててんだ」
「なにをって親分、た、た、大変なんでさあ」
「だから、なにが大変なんだい」
「た、た、田端が!」
「なにい、田端が?」
と、そこで目が覚めた。
おかしな夢を見た。銭形平次と八五郎が出てくる夢なんて、生まれて初めてのことだ。
ただ、田端のことはこの二カ月ほどひどく気にはなっていた。七月半ばのごく暑い日、不忍通りを動坂下で右折したタクシーが切通しの坂を少し登った時、左側に見えた景色が僕にはまったく未知の世界だった。車は一瞬で通りすぎた。夏の灼熱が生んだ幻影かと思った。
平次とガラっ八にまで催促されちゃあ座ってるわけにもいかない。おかしな夢を見た翌々日、すっかり秋めいたどんよりぐもりの昼下がり、幻をたしかめに田端に出かけた。
ここで、話は古い古い昔にさかのぼる。
僕が中学高校の六年間をすごした学校は、道灌山の天辺にあった。無論、今もある。ただ当時、国電西日暮里駅はなかった。当然ながら、営団地下鉄千代田線も開通してなかった。だから学校へは、田端駅か日暮里駅のどちらかから、道灌山の天辺をめざして十五分ほど歩かねばならなかった。
入学早々は駅と学校との最短距離を脇目もふらずに歩くのだけれど、学年が進むにつれて反抗心と遊びごころが目覚めて、そうはいかなくなる。とりわけ放課後は、まっすぐ駅へと向かうことは徐々に減少し、道草、迂回、寄道、脱線、そして遠征へと発展する。だから田端日暮里界隈は、僕にとって“少年の王国”であった。
田端をノシていて子供ごころを高揚させてくれたのは、その地形にあった。
田端は坂と崖の町である。道は上りまた下り、道はくねりまた曲がり、道は突き当たりまた展ける。田端の道は複雑繁茂、怪奇玄妙である。
荷風は『日和下駄』で、「坂はすなわち平地に生じた波瀾である」と書いた。然り。坂を歩くことは波瀾を歩くことなのだ。大人はいざ知らず、波瀾を好まぬ少年がいようか。
田端歩きにより一層の妙味を加えてくれたのは、道がところどころで急に広くなったり、かと思うとまた急に細くなったりする、その不定形さである。道の歪み、と言ってもいい。そういう空間が田端には何か所もあった。さらには、緑色のフェンスで囲まれた大小の空地が、東京都の管理下にあると明示された看板とともに、あちらこちらに点在していた。
なるほど、これはその内、区画整理されて、広い部分に合わせて拡張された太い道路が何本も作られるのだろうな、と少年は思った。ちょっぴり大人っぽく、そしてそんなことに気がつく自分を少し誇らしげに。
それから、茫々、五十年が経った。いつ歩いても、何度訪れても、極端に道幅の異なる道も、緑色のフェンスに囲まれた大小の空地も、そのままに在りつづけた。田端は変わらなかった。ただ、少年は老いた。
驚いた。驚くしかなかった。
先日、タクシーの車窓からチラリ瞥見した光景は、たしかに現実だった。けれどその現実は、僕には夢の中の世界としか思えなかった。在り得ないものが、あるいは見るはずのなかったものがそこに広がっている、そんな倒錯した想いでしばらく立ち尽くしてしまった。
遥々五十年が経って(いや、僕が知るもっと以前から計画は始まっていたのだろうから、それ以上の年月の後)、田端の一画が遂に変わり始めたのである。それも、大変わりにつながっていくような変わり方で。
現場は東覚寺の前である。
この寺の門前には一対の赤紙仁王像が立っていて、病気の部分に赤い紙を貼って平癒を祈願し、それが叶うと草鞋を納めるというので有名である。真黒な阿像と吽像にはたくさんの赤紙が貼ってあるのはいつもと同じだが、赤紙仁王堂も寺の山門もかつてのくすんだものから一変し、ま新しい木材と瓦屋根とですっかり建てかわっていた。
その東覚寺の門前は、まるで東京のずっと西の郊外の新興造成地といった有りさまで、スカーンと抜けきった空間の、あちらでは整地作業、こちらでは土台のコンクリート流し、そしてむこうでは木造建築の組み立てがそれぞれ進行している。それは僕のまったく知らない田端風景だった。
五十年変わらなかった田端の道が、いま変わろうとしている。その変貌は始まったばかりで、あの不定形な田端ならではの道がどういう風になっていくのか、わからない。
東覚寺の少し先にあった、芋ようかんで名高い和菓子の老舗「土佐屋」はなくなっていた。さらにその先の、何てことのないグラスワインの赤と、前菜の蛸のマリネを楽しんだ「タベルナ・ビアンカ」も店を閉めていた。
変わる田端ばかり見て、どうにも心が波立って落ち着かない僕は、大龍寺に向かう。ここには変わらずに正岡子規の墓がある。田端に子規の墓がある、それだけで僕は嬉しい。田端への愛着が深まる。
少し朽ちた感じの、わびしげな風情のある子規の墓は、いい。墓はなるべく簡素平明に限る。下手な装飾や華美な見せかけはどうにも有り難くない。その点、子規の墓は文句がない。墓前には、一輪ずつの赤い花と、向き合った二個の瓢箪が供えられていた。
大龍寺にはお参りすべきもう一つの墓が僕にはある。陶芸家・板谷波山のそれで、高校三年間、古文を教えていただいた板谷菊男先生の御尊父が波山なのである。
オバケ。それが先生の綽名である。頭髪がうすく、鶴のごとく痩せた風貌もその綽名を裏切ることはないが、オバケの由来は実はそこにはない。
先生は教材として主に『今昔物語集』や『古今著聞集』などの中世の説話集を使用されたが、初めの内は忠実に本文の説明と解釈を進めていくが、授業の半ばぐらいから少しずつテキストから離れだし、気がつくといつかオバケの話になっている、というのが毎度の授業風景だった。先生は本当に真摯にオバケを信じていた。波山の墓前に立つと、おのずと高校時代のあの古文の教室が甦ってくるのだ。
大龍寺をあとにして、田端駅南口に向かう。まるで信州の高原の中にひっそりと建つ、ローカル線の小駅のようなこの駅舎を僕は深く愛着している。田端駅南口は、東武伊勢崎線の堀切駅と並んで、東京の二大駅舎と僕は呼んでいる。駅の規模で表現すれば二小駅舎と言うべきなのだろうが、どうしてどうして、どんな大がかりな駅ビルを持った駅にも負けはしない。これほどに美しく、懐かしく、そして変わらぬ東京の姿を見せてくれる駅舎はない。